ブログを引越ししました!

この度、ブログを引越しいたしました。

こちらのリンクからご覧下さい。

今度ともどうぞよろしくお願いいたします。

心の栄養

先週末、知人に誘われてあるクリスマスパーティに出かけた。

 

招待されて来ている人たちの中にあまり知り合いもおらず、スポーツの話題や噂話になんとなくついていけず、場しのぎに(!?)出されたピザを次から次に口にしていた。

 

8時半頃になって日も暮れてきたし、娘もむずがり始めたので、そろそろ失礼しようかと思っていると、これからメイン料理のステーキを焼くのだという。(さっきのピザはオードブルだったそうだ・・)

ステーキにはあまり興味はないが、こんなのも用意しているのよと見せられた冷蔵庫の中のデザートがとても気になり、図々しくも持ち帰りにしてもらってパーティを後にし、しかも、家に帰りつく前に車の中でそのデザートを食べてしまった。

 

ピザ・ケーキ・フルーツパンチと普段食べなれないものを食べ過ぎたので、お腹はいっぱいなのに、なんとなく身体が落ち着かない。

身体はとても正直だな〜と実感した。

 

ところで、私たちの身の回りには身体の栄養に関しての知識と情報は十分に溢れているが、「こころの栄養」に関する知識や実践はどうだろう?

 

身体の栄養と同じように、こころ栄養にものエネルギーの摂取と消費のバランスがあるとしたら・・。

 

例えば、こころから楽しいと感じることに時間を費やすことを、こころの栄養の摂取とすると、気は乗らないけれど、やらなければならないと思いながらやっていることは、心のエネルギーの消費となる。

 

身体の栄養と同じく、こころの栄養にも必要摂取量というものがあるような気がする。

消費が摂取量を上回ると、こころの栄養失調状態に陥る。
逆に、こころの栄養価の高いものを十分に摂ると、こころが健康で豊かになる。

 

さらに、「こころのジャンクフード」というものも身近に存在する。
だらだらとテレビやインターネットに時間を費やすこと。
ついつい断れず、いやいやながらやってしまう頼まれごと。
自分のためにならない人間関係やつきあいを断ち切れずに時間とエネルギーを無駄にしてしまうこと。
などなど・・・。

 

よくないと分かっていてもついつい手が出てしまうお菓子の袋のように、ついつい気付かない間に無駄なこころの時間を費やすことがよくあるのではないだろうか。

 

身体の栄養と異なり、こころの栄養価は、人それぞれの価値基準によって決められるようだ。

好きな音楽を聴く、仲の良い友人と一緒に時間を過ごす、静かな時間を作る、自然に触れる、など、心の栄養を十分にとりいれると、自然と身体もリラックスしていくのが分かる。

 

身体に摂りいれる栄養素の中に、必須アミノ酸というものがある。
これは、体内で合成できないため、外部からしか取り入れることのできない大切な栄養素である。

 

これをこころの栄養素に例えると、まさに心の栄養に必須なのは「人とのつながり」だと思う。

 

どんなに自立して生きているように錯覚しても、やはり人は人とのがりなしでは生きていけない。そして大切な人とのつながりを実感するほどますますこころも豊かになっていくのだろう。

 

こころと身体の健康状態はたましいの状態に直接反映するものだから。

 

師走に入り、なにかとせわしく、そして人との付き合いの時間が増える今日この頃、こころの栄養もたっぷり補給しながらこころ豊かに穏やかに過ごしたい。


 

いのちのつながり

 

こんな映像を見ると、ささいなことで不満を感じるこころから解放されるような気がする・・。

命って本当に過酷でそして、ミステリアスで美しいものだなあ・・。

 

 

動画:Beauty of Pollination (受粉の美しさ)より

魂のスイッチを「オン」にする

先日ふとした縁で、20年前までパリとアメリカでファッションデザイナーとして働いていた女性と出会った。

 

現在はインテリア関係の仕事をしているという。

なぜファッションの世界から離れたのかと尋ねると、女性のわがままについていくのが嫌になったからよ、と即答が返ってきた。

 

ファッションの世界は離れたものの、インテリアの仕事として素敵なクッションを作ったり、インテリアに関するコンサルティングもしており、やっぱり布に囲まれる仕事には変わりないのよね・・・と言う。

 

しかも、これからナチュラルな麻の素材をベースにした服のデザインを始めようと企画を進めている。やっぱりめぐりめぐってファッションと服作りにたどりついてしまったそうだ。

 

これまでの作品の写真を見せてもらったところ、とてもシンプルなデザインながらも品を保ち、どこか一ひねりある素敵な作品で、手元に大切において楽しみたくなるものばかりである。

 

しかし当の本人はというと、ファッションとは程遠い風貌。

 

肌が浅黒くしわしわで、車を路上に駐車して裸足で道を渡ってくるような人である。(その後2回ほど彼女と会う機会があったけど、靴を履いているのをみたことがない・・)

 

あなたはどこで服を買うの?と興味しんしんで尋ねると、「近所のリサイクルショップよ!」とあっけらかんと答えが返ってくる。

 

でも第一印象ですぐに魅力を感じたのは、彼女の話し方。

 

初めて会ったにも関わらず、馴れ馴れしくもなく、よそよそしくもなく、とても心地いい気持ちにさせてくれる。

 

彼女と話しているとそれが他愛もない世間話であっても、ちゃんと私という存在を認めてくれて、対話をしてくれているという実感を覚える。しかも彼女の視点はとても独創的で話を聞いていると、こちらも良い刺激になる。

 

靴を履かずに路上を裸足で歩くのはどうかと思うが(!)、彼女と出会ってから、クリエーティブなエネルギーは、目には見えないインスピレーションという形で、周囲にポジティブな波及効果をもたらすものだなあと実感した。

 

以前は、いわゆる「アーティスト」いうとちょっと現実離れしていたり、常識とかけ離れた人というイメージを抱いていたが、

ここ数年、「クリエーティビティ」(Creativity=創造性・独創性)という言葉をじっくり考えるようになった。

 

クリエーティブという言葉は、魅力的だがなんとなくつかみどころがない。

 

単純にクリエーティビティというといわゆるアーティストと呼ばれる人たちが持っている特別な才能のようなイメージも湧いてくる。

 

しかし、以前ブログでも書いたように、アーティストと呼ばれるかどうかにかかわらず、クリエーティブでない人間は存在しないように思う。

 

誰と時間を過ごすか、どのように時間を過ごすか、どんな服を着るか、どんな表情をまとうか、どんな心持で人と対話するか、どんな話し方をするのか、どんな食べ物をどのように食べるのか、どんな空間で生活しているか、といった何気ない毎日の小さな選択の数々の積み重ねが、その人の個性、ひいては生き方のクオリティを形作っていく。

 

一人一人の毎日の生活が、その人独自の創造物だとしたら、すべての人はクリエーティブな存在なのである。

 

では、その毎日のささいな選択をどのように積み重ねていくのか・・・。

 

私は、クリエーティブな状態というのは、魂のスイッチが入った状態だと思う。

 

自分は何のために生まれてきたのか、どのような生き方をしたいのか、生きているうちに何を成すべきなのか、といった疑問と正面から向き合っている人たちは、まさに魂のスイッチが「オン」の状態であり、その生命力のあふれるエネルギーが、喜びや感動やインスピレーションとして周りにも波及効果をもたらすのではないだろうか。

 

それは、なにも大げさなことではない。

 

大切な家族のために心をこめて食事を作ること
誰も気づかないところで、人や自然に愛情ややさしさを持って行動すること
好きな趣味に没頭して充実した時間を過ごすこと
自分の成しえたことに満足感を覚えること
さりげない言動で、周囲の人に安らぎをもたらすこと

 

周りからみてどんなささいなことでも、魂のスイッチがオンの状態かオフの状態かは、本人にしか分からないのだから。

 

自分を忙殺し、自動操縦モードで生活することによって空虚感やフラストレーションを避けることも出来るこのご時世。

 

しかし、せっかくひとつの魂として生まれてきたからには、「私」にしか生きられない独創的で豊かな生き方を模索し続けたい。そんな想いが毎日の選択を形作っていくように思う。

 

そして、人生が終わる頃には、私にしか創造できない世界でたった一つの大作が出来るのかもしれない。それまでは、クリエーティブなプロセスを存分に楽しもう・・・。

 

さて、今夜は新月。

 

あなたの魂のスイッチを「オン」にして、あなたにしか出来ない何かを生み出すエネルギーを再発見するには良い機会かもしれない。

 


 

赦すということ

私の知人で50歳を過ぎる男性は、長年両親に対する根強い恨みを抱えている。

 

幼少期から病弱で、大人になってからも慢性的な自己免疫疾患や不眠症で悩んでいるのだが、
自分の病気の由来は両親が自分の身体の不調や心のニードを理解してくれなかったことにあると判断し、20年前から両親と断絶している。

数年前父親が亡くなったと知らされてもお葬式にすら行かなかった。年老いた母親ともまったく顔を会わせていないという。

 

彼はいつも苦虫をかみつぶしたような表情で、何を話していても、話題は両親への不満や社会への批判、同僚の悪口、自分の病気のこと、などネガティブな内容に行きついてしまう。

 

一度その彼に尋ねたことがある。

 

「あなたは、両親や周りの人たち、社会への恨みや不満を言うけれど、本当はあなた自身が一番苦しんでいるのだよね。」

 

彼は、一瞬はっとし、そして悲痛な面持ちで、「分かっているのだけれど、どうやって赦していいかわからないんだよ・・。」と答えた。

 

幼い頃から無力感に苛まれ続けた彼にとっての唯一の復讐は、親との関係を絶つことだったのだろう。

 

傷つけられたり、大切な何かを奪われたり、失望させられたり、理不尽な対応を受けたりした時、怒りを感じたり、相手や不特定な誰かを恨みたくなるのは人間として自然な感情である。

 

私も先日初めて行ったヘアサロンで髪型をめちゃめちゃにされてしまったときは、2日間は鏡を見るたびに、恨みの感情が湧いてきた・・(笑)。

髪は伸びるものだからいいとして・・・。

 

前述の男性の例にもあるように、その反応が正当かどうかの判断は別として、慢性的な恨みは他の誰でもなく自らを苦しめてしまう。

 

「恨みという感情は自ら毒を飲みながら相手が苦しむことを望んでいる状態」という言葉がある。

 

では、どのしたらその呪縛から解放されるのか・・。

 

「ゆるす」という言葉は、安易に使われることはあっても、「ゆるす」という真の意味は、そう単純ではない。

 

「ゆるし」とは、言葉や思考による行為で即効を得るものではなく、勇気をもって自分の受けた苦痛や根深い感情を受け止め、前に進んで生きていく「プロセス」だと思う。

 

世界中のあちらこちらで起きている理不尽なことから目をそらさずに生きていくためには、「ゆるす」ことの理解が大切な要素だとしばしば考えさせられる。

 

話は少し脱線するが、少し前に「Five Minutes of Heaven (邦題:レクイエム)」という映画を観て、複雑な「ゆるし」のプロセスをうまく表現しているいい映画に出会ったと思った。

一般のハリウッド映画に比べるととても地味な作品にみえるが、静かで落ち着いた演技で登場人物の、ストーリの中にゆっくり引き込んでくれる。

 

北アイルランド紛争でのある事件を背景に、被害者と加害者の苦悩や感情が包み隠さず描かれている。

 

ゆるすという言葉をどういう捉えるのか、個人の価値観に迫られる。

 

ゆるすというプロセスは、きれい事では済まされない。

 

そして本当に罪から解放されるというのはどういう意味なのか、最後の5分間で強烈なメッセージがストレートに伝わってきた。(これから映画を観る人のために、詳しい内容はここでは省略しましょう・・)

 

トランスパーソナルヒーリング講座においても、幼少期の出来事を振り返る中で、それによって生じたトラウマや傷を振り返るとき、「赦す」ことを十分深く理解しておくことはとても大切だと痛感している。

 

講座の目的は、誰の(何の)せいで自分がこうなったかと責めることではなく、自分自身の行動パターンのルーツを理解することで、意識が深まり、どんな出来事をもってしても誰をもってしても、けがれたり傷ついたりすることのない、自分自身の魂の本質を再発見することにある。

 

その本質に触れることで、自然と内側からの癒しが可能となる。

 

私が長年参考文献として使っている「Character Styles」の著者スティーブン・ジョンソンはこう書いている。

 

「自分を抑圧したり傷つけたりした相手に対する最高の復讐は自分自身が幸せになることである。」

 

さて今夜は満月・・・・。
恨みによってしばられているこころに満月のやさしい光をあててみるのもいいかもしれない。

 

 


 

Spring in Canberra!

オーストラリアの内陸部でも、ただいま春真っ只中!

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2週間まえに訪れたキャンベラでのフラワーフェスティバルの様子。

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この数日後にイギリスエリザベス女王も訪れたと、

ニュースで取り上げられていました。

DSC00415.JPG 春らしいドレスをまとった可愛い姉妹。

 

どの土地にいても、やはり春は心地よい・・。

(花粉症だけは容赦ないけどね・・)

愛情の伝え方

「うちの夫は、気の利いたプレゼントのひとつも買ってくれたことがない」

 

「こんなに愛情を示しているのに、妻にはまったく伝わっていない」

 

「やたらプレゼントばかり買ってくるけど、忙しいばかりでドライブにすら連れて行ってくれない」

 

「こんなに言葉で愛情を示しているのに、なぜ相手は私の気持ちを疑うのでしょうか」

 

愛する者同士であっても相手を気遣う気持ちや行動がうまく相手に伝わらないことがよくある。

 

面倒くさいようだが、愛情があればちゃんと相手に伝わるだろうという勘違いは、コミュニケーション不足につながり、本当に大切な人を傷つけたり、関係に溝を作ったりしてしまう。

 

愛情の表現と一口にいってもその方法はいろいろであり、どのように愛情を伝えるか、また何をもってして愛情の表現とするかは、その人それぞれの文化・習慣や生育環境によって大きく異なる。

 

したがって、相手がどのような形もって愛情と受け止めるのかを知っておくのは、夫婦や恋人同士だけでなく、友人や職場での人間関係においても役に立つことだと思う。

 

このような視点で愛情表現の方法を分かりやすく5つに分類した、Five Languages of Love (邦題:愛を伝える5つの方法::ゲリー・チャップマン著)を最初に読んだのは数十年になるが、今でもときどき大切な人への愛情の伝え方を振り返るときにとても参考になっているので、ここで簡単にご紹介したい。

 

その5つの方法とは、以下の通り

 

愛情の5つの表現
Five Languages of Loveゲーリー・チャップマン著より抜粋
http://www.5lovelanguages.com/

1. 肯定する言葉: ほめられることや愛情を言葉で伝えられること

 

2. 意義のある時間を過ごすこと: 自分が楽しいと感じることや共通の趣味のために一緒に時間を過ごしたりすること

 

3. 贈り物をもらうこと: これは、かならずしも物質主義ということではなく、贈り物の背後にある思いやりや自分の欲しいものや好みのものを知っていてくれたことが伝わること

 

4. 自分のために何かをしてもらったり手伝ってもらったりすること: 家事や育児を手伝ってもらったり、自分のために手助けしてくれたり何かをしてくれること

 

5. スキンシップ: ハグや、手を握ること何気なく肩に手を置かれること、それを通して、会えてうれしい、愛している、あなたのことを大切にしているというメッセージが伝わること

 

あなたは、どんな時に「愛されている」と実感するだろうか・・・。

 

夫婦の間で例えた場合:
夫は妻に対して感謝の気持ちやほめ言葉をもって愛情を表現しているとしよう。

 

しかし、妻は「うちの旦那は、誕生日にプレゼントや花束などを贈ってくれたことがない」と不満を抱いている。そんな妻は夫の誕生日やことあるごとにプレゼントを贈って喜ばせようとするが、夫はあまりうれしい様子を見せてくれない。

 

それどころか夫の方は、「こんなに一生懸命家族のために働いているのに、ねぎらいの言葉ひとつさえかけてくれることがない・」と不満を抱くようになる。

 

このすれ違いはどこから生じるのか・・。

 

妻の方は、幼い頃に両親や祖父母から誕生日やお祝い事のたびにお小遣いやプレゼントをもらった体験を通して、「愛する人には贈り物をもって愛情を表現するものだ」という無意識の期待を持っている。

 

一方、夫の方は小さい頃経済的な理由で両親からプレゼントをもらった経験は少ないが、ことあるごとに自分の努力を認めてもらったり、何かを達成した時に十分言葉でほめられたりした経験を通して、「愛情は言葉をもって伝えられる」という期待を持っている。

 

これらはほとんどの場合、本人すらも気づいていない愛情の表現や受け取りかたのパターンであり、愛情が思うように相手に伝わらないのは、私は、「こうしてもらうと愛情を感じる」ということと、「私は00をもってして愛情を伝えていはずなのに」という方法がちぐはぐになっているからである。

 

相手との気持ちを確認しあうことなくこんな状態が続くと、関係に溝が生じることもある。

 

これらの愛情表現方法や習慣からくる愛情の受け取り方は、相手を操作するためのものではなく、本当に大切な人にちゃんと伝わる形で自分の愛情を伝えたいと思った時にとても役に立つことだと思う。

 

相手の愛情に不満や疑問を抱いた時、私はこうして欲しいんだな・ということを受け止め、相手を非難することなくオープンに話し合うことで、さらに理解と愛情が深まるものだと思う。

 

今日は新月・。
大切な人への愛情を実感し、お互いへの思いやりを再確認してみるのもいいかもしれない。

キンバリー:偶然の出来事は必然の出来事

キンバリーのホスピスナースとしての担当が決まった時、最初は正直言って貧乏くじをひいてしまったと思った。

 

30歳のキンバリーが在宅ホスピスのケアの対象になった診断名は、末期のAIDS。
彼女が住まいとしているボーイフレンドのアパートは、サンアントニオ・ダウンタウンの南の地域にあり、薬物中毒者や売人、そして売春目当ての人たちがたむろしていて、普通の人は、昼間でも近づかない方がいいと言われていた。

 

彼女を「訪問」するためには、まず通りをうろうろ歩いている彼女を探すことから始まる、と以前の担当ナースが言っていた。そして、運良く彼女を見つけたら、そこに車を止めて、道端で血圧測定などのアセスメントをしなければならないのだという。処方された精神安定剤や痛み止めなどの薬は、ほとんどかならずといっていいほど、処方が切れる前に行方知れずになる。身体を売って生活費を稼いでいる彼女の部屋には、つねに男性が入れ替わり立ち代り出入りしており、無造作にその辺に置かれている彼女の内服薬も盗まれたり、小銭稼ぎのために売られたりしていたようだ。

 

そして、そのうち一緒に暮らしていたボーイフレンドが刑務所に送られ、住む場所を失うことになると、女ともだちが、もう少しましな場所で一緒にアパートを借りて住もうと持ちかけてくれたという。

同居することになった女友達も薬物中毒のリハビリ中だが、その頃なんとか仕事をちゃんとできるほどにまでなっていた。お互いに悪い仲間から縁を切ってまともな生活をしようね、と誰にも引越し先を告げず、小さなアパートに二人でひっそり暮らすようになった。

 

初めてキンバリーに会った時、骨と皮がふらふらと宙に浮いて歩いてるかのようにみえた。AIDSの末期症状で、神経症状、痴呆、失禁、歩行障害、消化吸収障害があり、徐々に弱ってきている。

にもかかわらず、どこに出かけるわけでもないのに、家の中でいつも派手な服を着てフローリングの床の上を5センチ以上のハイヒールを履いてふらふらと歩き回るキンバリー。じっと座っていられないのである。

 

タバコはやめられないが、ライターを買うお金がないということで、かならずガスコンロでタバコに火をつける。そしてガスコンロはつけっぱなし。

 

いつ転倒や火災の事故が起きてもおかしくないが、彼女を受け入れてくれる施設などはなく、この環境のなかでベストの安全対策施すしかない、ケアを管理する者としては悪夢のような状況だった。

 

たまたま私が3連休をもらっている間の出来事。

 

代わりの男性ナースが訪問してリビングのソファーに腰掛けたところ、キンバリーと友人がバツが悪そうに、「私だったら、そのソファーには座らないけど・・」と忠告(?)する。
なぜがと訳を尋ねると・・

 

前の晩、刑務所から出所した元ボーイフレンドがどこで居場所をかぎつけたのか、突然押しかけてきた。逆らうとまた暴力を振るわれるので、仕方なくソファーに泊めることにした。
その男性は、大量に酒を飲み、しかもキンバリーがヘロイン中毒の治療のために服用していた合成麻薬を大量服用し、キンバリーと友人が朝起きたときには、ソファーの上で冷たくなっていたという。

 

「ついさっきまで、警察と検視官がいろいろと調べていって、死体を運んでいったところ・・。あなたが座ってるそのソファーで死んでたんだよ・・。」
さすがに人の死になれているはずのベテラン男性ナースもそれを聞いておもむろに別の椅子に座りなおしたという。

 

そんなはちゃめちゃなキンバリーだが、どんなにてこずらされても、どこか憎めないチャーミングな性格だった。

食べても、すぐに下から出てしまうと分かっていても、あれが食べたいな〜これが食べたいな〜と食べ物の話題は事欠かない。
好物のタピオカプディング(しかもルビーズというレストランのタピオカプディングが最高と言い張る!)を時々訪問のときに差し入れすると、子供のようにはしゃいで喜び、クリスマスの朝にサンタクロースから最高のプレゼントをもらったかのように、満面の笑顔で涙ぐみながらそれをほおばる姿は今でも忘れられない。

 

キンバリーの感染力はとても高く、私の安全を気遣うホスピスの担当医師は、涙も含めてすべての体液との接触を避けた方がいいと何度も忠告してくれていた。

 

そこ3ドルくらいで手に入るタピオカプディングに感動するキンバリーは、感動の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を私の肩に押し付けてありがとうのハグをしてくる。そんな時、私はしっかり彼女にハグを返すが、ちゃんと車の中に着替えの服を用意するようにしていた。

 

キンバリーの状態が日に日に悪化するにつれ、ホスピス担当ナースとしてフロリダ州に住むキンバリーの母親と頻繁に電話で経過報告をするようになった。

 

キンバリーと母親は、数年会話を交わしていないということだったが、母親はとてもキンバリーのことを案じており、普通の家庭で大切に育てた娘をどんな策をしてもまともな道に戻すことが出来なかったと、無力感に苛まれている様子は、電話でも十分伝わってきた。

 

キンバリーは、自分自身の過去のことはほとんど話さず、私もあえてさぐることはしなかった。

 

母親がぽつぽつと話してくれた内容を総合すると、キンバリーは20歳代半ばまでごく普通の家庭で、問題なく成長し、看護師として働きながらとても素敵な夫と暮らしていた。
どんな魔がさしたのか、キンバリーが浮気したことをきっかけに離婚してから、彼女の生活は一変したという。

 

職場で薬物を違法に扱ったことで、看護師免許を剥奪され、それからは薬物におぼれ、売春と坂を転がり落ちるように彼女の生活は闇の中に陥っていった。
母親の忠告や助けを受け入れず、居場所も告げずに転々としたため、病院や警察から連絡があるとき以外は、まったくコンタクトがとれない状態だったという。

 

ちょうどクリスマスが近づいている12月の上旬のことだった。いつ何が起きてもおかしくない状況であることを伝えると、「そちらに向かった方がいいでしょうか?」と母親が尋ねる。今年に再婚したばかりで、新しい家族との初めてクリスマスを差し置いて、キンバリーの面倒を見に来るべきかを迷っていた。

 

「どれくらい持つでしょうか?」「クリスマスが過ぎてからでも彼女と話せる状態で会えるでしょうか?」すがるように尋ねてくる母親の苦悩が十分伝わってきた。

 

ここで、ナースとしては、私見を述べることは控えるべきなのだが、私は思い切って電話口でこう伝えた。
「キンバリーを受け持つようになって、彼女に対して愛情を感じるようになりました。私は彼女の過去を知らないし、どんなに人に迷惑をかけて傷つけたかというしがらみがないので、こんなことが言えるのかもしれません。彼女が今後どれくらい意識が保てるか、いつ亡くなるかは、だれにも確たる予想はできません。でも彼女が私の姉で、生きているうちに言葉が交わせる間に会っておきたいと思うとしたら、明日の飛行機ででも手配すると思います。」

 

電話の会話の後、キンバリーの母は、さっそくサンアントニオ行きのチケットを手配した。

 

2日後にキンバリーの母親がサンアントニオに到着した時、サンアントニオでは思いがけない大事故が起きていた。

 

毒性の高い化学薬品を積みこんだタンクローリーがダウンタウンのハイウェイ交差点で横転し、薬物が空気中に漏出した。
主要道路は封鎖され、市街地だけでなく、サンアントニオ全域の交通網が麻痺し、大きな混乱がおきたのである。そんな日に空港に降り立ったキンバリーの母親は、タクシーでキンバリーのアパートに直行しようとするが、迂回道路と閉鎖道路ばかりで渋滞に巻き込まれ、普段だと空港から車で20分ほどの目的地に2時間経ってもたどり着かない。

 

日が暮れ始め、焦りばかりがつのっていたそのとき、交通整理の交差点でたまたま隣に止まった車の運転席にふと目をやると・・・。キンバリーの元夫が乗っている。
まさかと思ったが、思わず車を降りて確認するとまさしくその人だった。

 

あまりの偶然に興奮し、近くに車を寄せ、手短に状況を説明する。
キンバリーの夫は現在再婚して平凡で幸せな生活を送っているという。
別れた後のキンバリーの消息はまったく知らなかったものの、キンバリーをとても大切に思い、どうしているかと気になり、ときどき探そうとしたがまったく消息が分からなかったのだという。

母親からキンバリーのその後を聞かされて驚いた彼は、彼女と会いたいと申し出てくれた。

 

この男性は、キンバリーの浮気が原因で離婚にいたってしまったが、キンバリーにとって最初で最後にこころから愛した人だった。

 

翌日、その男性が大きなお見舞いの花束を持ってキンバリーのアパートを訪れたとき、すでに意識がもうろうとしていたキンバリーは、前の夫がもういちどやりなおそうとプロポーズしに来てくれたのだと思い込んでとても喜んだという。

 

それから数日後クリスマスの3日前にキンバリーは母親に看取られてとても安らかに息を引き取った。
その男性は短時間ではあるが、亡くなる前の数日間、毎日お見舞いに来てくれた。

 

亡くなる前の数日間のキンバリーは幼かったころのキンバリーにすっかり戻ったように、母親に無邪気に甘えたり、優しい言葉をかけて過ごしたという。そしてその男性からいまでも愛されているということを確認してとても満足していたと、母親が伝えてくれた。

 

若い頃に大きな過ちを犯してしまったキンバリーだったが、紆余曲折の回り道の末、最期には愛情に囲まれてこの世を旅立った。そしてその状況を引き寄せたのは、まさに神の手の行いとしかいいようのない偶然が重なった出来事によるものだったのである。

 

あれから10年・・
偶然の出来事は必然の出来事であることを教えてくれたキンバリーのことを今でも時々思い出す。

 

遠隔瞑想会10月のご案内

遠隔瞑想会10月のご案内です。

 

日時:2011年10月27日(木)新月の夜・午後9時から20分間。

新月のエネルギーを取り入れながら、みなさんがいらっしゃるその場所で、穏やかな瞑想の空間を体験してみませんか?

 

瞑想についての基礎的ことを知りたい方は、こちらのリンクをご覧下さい。

参加ご希望の方は、こちらからお申し込み下さい。(参加は無料です)

参加者用の掲示板へのログイン方法と今回の瞑想法の説明をお送りします。

 

みなさまのご参加をお待ちしています!

YesとNoのバランス

YesとNoという言葉を比べてみると、その価値に格差があるように思える。

 

「はい、わかりました!(Yes!)」と元気よく応えて、ほめられたり好感をもたれたりすることはあっても、「嫌です、お断りします!(No!)」というと逆の反応が返ってくるだろう。

 

しかし場合によっては、ノーと言うことが大切な自己表現となることもあり、きちんとそれが言えるようになることも、健康と精神衛生のために大切なことだと思う。

ここでYesとNoのバランスを振り返ってみたい。

 

まず、ここでいう「Yes」 とはどういうことか・・。 

それは、何かを肯定すること、受け入れること、了承すること。


逆にいうと、「No」は何かを否定、拒否、拒絶、反発、断ること

 

・・・と書いてみると、すでにYesの方が善でNoは悪のように見える。Noは不当な差別を受けているのではないか??

 

私たちの身体の機能をみてみると、Yes と Noは同じくらい重要な機能であるのが分かる。

 

例えば、身体の中に何かを取り入れる、食事や呼吸の機能がYesの機能だとすると、異物や不必要なことを見分け排除する、免疫能力や排泄能力はNoの機能だといえる。

不快なにおいや味、音などに対して、それを取り除こうとする反応もNoの機能であり、どれも生きていくために不可欠なこと。

 

心の面でみても、何かに感動したり共感したり、惹かれたりする感情がYes の感情だとすると、矛盾した対応に怒りを感じたり、道理に反したことに対しておかしいぞ!と反発する、といったNoの反応は、同じくらいとても自然なことである。

 

しかし、育ってくる過程において、「何でもハイハイと受け入れなさい」とか「素直に言う事を聞きなさい」と言われてくると、ついついNoといってはいけない・・「はい!」と言わなければならない、と思い込む習慣もついてくるのではないだろうか。

 

それに、大好きなこと、夢中になっていること、楽しんでいること、すなわちこころと身体がYes!!と感じていることを否定されたり叱られたりすることを経験すると、自分にとってはこんなに楽しくて、うれしいことなのに、それはいけないことだと教え込まれる。

逆に、No!!!と言いたいことなのに何かを強制的にやらされることも多々あるだろう。

 

これは、幼少期に誰もが大なり小なり体験する自然なことだが、大人になって内面を検証することをせずに放置しておくと、自分にとって何がYesで何がNoだか分からなくなり、知らず知らずのうちに人の期待や社会の通念に押し流されたまま生きてしまうことになる。

 

そして、大切な夢や希望、愛情、目の前に訪れるチャンスなど、Yesというべきこと、にNoを言い続けると希望を失いこころが憂鬱になってくる。

 

逆にNoというべきこと、例えば、つまらない頼まれごとやだらだら続いている習慣や人間関係を受け入れてしまうと、いつの間にか体調を崩したり、急にふとしたことで感情が爆発してしまったり・・ということが起きてくる。

 

自分にとって真のYes とNo を見極めるためには、体の反応を振り返るのが一番分かりやすい。
Yes と言ったときでも、身体が緊張したり、縛られたような感じになる。
そしてNoと言ったときにふと肩が軽くなったり、こころがすっきりすることもある。

そう、とても単純にうそをつかずに、身体は本当の答えをちゃんと教えてくれる。

 

では、YesとNoのバランスをうまくとるためには・・・。


失敗するかもしれないけれど、何か新しいことに挑戦してみる・
期待する反応が返ってこないかもしれないけれど、誰かに手を差し伸べてみる・
実現するかどうか分からないけれど、自分の可能性を肯定して信じてみる・
相手をがっかりさせることになるかもしれないけれど、キチンとNoを伝える訓練をする・
ネガティブな思考を頭から整理して片付けてしまう・
身体のためにいい習慣を取り入れてみる・

そして、いい人でいることと、正直な人であることは時には相反することを知っておくこと・

 

本当の答えは自分だけが知っているのだから。

 

今日は新月。
この機会にこころの中のYesとNoを整理してみるのもいいかもしれない。

 

追記:ここまで書いてみて、YesとNoの間に存在する、Maybe(たぶん)もしくは答えの出せないグレーの領域も存在していることもちゃんと整理しておかなくてはならないな・と感じた。このことについてはまたいつかのブログに書いてみたい。

見えないものの力

私達の身の回りをじっくり振り返ってみると、目に見えるものや手で触れられるものとそうでないものがあり、思いのほか目に見えない・手で触れられないものの割合の方が大部分を占めていることが分かる。

 

目で見えるもの手で触れられるものとそうでないものを比べた場合、どちらの方が価値があると捉えているだろうか?
その価値観のバランスが崩れるとどうなるのだろうか?

 

例えば・・・・・・

見えるもの・触れられるもの:身の回りにある日用品、雑貨、家具、電化製品、洋服・靴など
見えないけれど存在するもの:その物品に対する執着心、もしくは愛着

 

見えるもの・触れられるもの:親しい人からもらう贈り物
見えないけれど存在するもの:贈ってくれた人の気遣い、その製品の製造に関わった人たちの労力と思い

 

見えるもの・触れられるもの:人を助ける行為
見えないけれど存在するもの:思いやり、満足感、そして受け取った人が感じる感謝の気持ち

 

見えるもの・触れられるもの:空を染めながら山の向こうに沈む紅い夕日
見えないけれど存在するもの:自然の美しさへの感動

 

見えるもの・触れられるもの:家族・友人の存在
見えないけれど存在するもの:大切な人への愛情やそばにいなくても感じるつながり

 

見えるもの・触れられるもの:神仏を祭る教会や神社、像など
見えないけれど存在するもの:感謝の祈りを、希望、神仏や宇宙のエネルギーに対する畏敬の念

 

こうしてみてみると、見えなもの・触れられないことが私たちの言動や心の状態を大きく左右することが分かる。

 

そして見えないけれど存在するものを感じるためには、創造力や感性が必要である。

 

人として健康で幸せに生きていくためには、見るもの触れるものを通して、見えないもの、触れられないことを感じ取り、そのバランスをうまくとることが大切のようである。

 

なぜなら見えるもの・触れられるものだけにこだわると、目先のことばかりにとらわれて大切なものを見失いかねないし、そうでないものばかりを追い求めていると、足が宙に浮いてしまうこともあるかもしれないからである。

 

話は少し脱線するが・・・
1997年にアメリカ公開されたジョディー・フォスター主演の映画『コンタクト』の中のワンシーンで、今でも忘れられない会話・・・。

 

ジョディー・フォスター扮する、宇宙科学者は幼いときに大好きな父親を亡くしている。
宇宙から送られてくる不可解な信号を解読し、宇宙からのメッセージであるかどうかを研究するプロジェクトに携わっている彼女は、すべての現象を客観的なデータと証拠にのみこだわり、科学で証明できないことは存在しないと言い切る。

 

大切なことを見失いそうになっている彼女に、好意を寄せる友人が尋ねる。

「君は亡くなったお父さんをいまでも愛しているかい?」
「もちろんよ」
「じゃあ、証明してごらん」

 

この映画のラストシーンは当時の私にとっては、感動必見ものだったな・・・。


今日は、満月。
触れることはできない満月のエネルギーに心を開き、手を合わせて祈りを捧げよう・・・。
そして子育てでちょっと疲れた身体もちゃんと充電しなくちゃね・・。

先祖の記憶

移民の国であるアメリカとオーストラリアでの生活も合わせて16年近くになろうとしているが、出会う人たちそれぞれには、この国にたどり着くまでの経緯や家族の歴史があり、その背景となる文化が、その人の生活スタイルや思考の根底に流れている。

 

私の先祖と言えば、さかのぼれるのはせめて3代前くらい、それもお盆とお正月でお墓参りをしたときに、墓石の名前を見て、これは誰だった、こうだったとかいう話をする程度の認識しかなかった。

 

なぜか、ここ数年私の先祖についてよく考えるようになった。
私のこの好奇心の旺盛さは、どの先祖様から受け継いだのだろうか・・・。

 

山に囲まれた小さな村で、「あの山の向こうには何があるんだろう・・向こうの世界をいつか見てみてえなあ・・」なんて思いながら畑を耕していたに違いない、と勝手に想像してみる。

 

実際にご先祖様と会って会話をすることはできなくても、細胞の中にあるDNAには、これまでの先祖の歴史と進化の過程が精巧に刻まれている。

 

先祖一人一人が体験してきた苦労や愛憎のドラマ、幸運と不運、偶然が織り交じった生命の記憶・・。

 

どんな環境にあっても、命をつなくことをあきらめないでくれたおかげで今ここに私が存在している。

 

生命はかならず誰かとつながって初めて生を授かる。

 

さらに考えてみると・・・・。
女の子が生まれるとき、すでにその卵巣には、一生分の卵子細胞が備わっている。
ということは、私の母が祖母の母体に宿っている間、私の原型となる卵細胞はすでに存在していた訳である。

 

そして私の身体が創り出す細胞がDNAというメモリーチップとしてわが子に受け継がれていく。

時間の線と、魂の線が交わって誕生する命のことを想うと、神秘的な生のつながりに対して畏敬の念を感じざるを得ない。

 

50年後、100年後、200年後、私がバトンタッチしたDNAはどのように進化して、それを受け継いだ子孫はどんな生活を築いていくのだろうか。

 

時間を逆にたどって考えてみると、100年前、500年前、1000年前、5000年前に地球に存在した私達の先祖はどこでどんな生活を送り、どんな困難や幸福、成長、発見を体験したのだろうか・・。

 

もしご先祖さまと会話ができるとしたら、みなさまの苦労や努力のおかげで私はこんなに恵まれた命をいただきましたとぜひお礼をしたい。

 

そして、海と山を越えて遠く離れた国では、こんな景色があって、珍しい鳥のさえずりが聞こえるんですよ・・・、と彼らが想像するにも及ばなかったであろう、この体験と感動をぜひ共有して語り合ってみたい。

 

DNAを通してつながっているこの身体とこころを開いて語りかけたら、先祖が笑顔でうなずきながらよろこんでくれるような気がする。

遠隔瞑想会へのご案内

9月12日は中秋の名月ですが、満月の日と重なるのは6年ぶりだそうです。

たっぷりと満ち足りた月のエネルギーに波動を合わせ、心と体を癒す時間を過ごしてみませんか?

 

日時:2011年9月12日(月)午後9時から20分間。
テーマ「見えない何かとのつながり」

 

瞑想についての基礎的ことを知りたい方は、こちらのリンクをご覧下さい。

参加ご希望の方は、こちらからお申し込み下さい。(参加は無料です)

参加者用の掲示板へのログイン方法と今回の瞑想法の説明をお送りします。

 

 

 

この遠隔瞑想会を始めてからちょうど一年目となります。
これまで参加してくださった方々、定期的に参加してくださっているみなさま、素敵な空間をご一緒させていただいたこと、心から感謝します。


これからもこのような機会を重ねて、みなさんとのつながりを深めていくことを楽しみにしています。

 

 

 

注)6月の遠隔瞑想会は、都合によりお休みさせていただきました。7月8月のご案内は、メルマガにてお送りしました。今後瞑想会のご案内をご希望の方は、お手数ですが、メルマガへのご登録をお願いいたします。

 

春近し・・・・・

昨日の最高気温は、20度。

猛暑の中で20度というと、「涼しい」と感じる温度が、

晩冬のオーストラリアでは「暖かい」と感じられる。

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近所の街路樹も次々と、春を感じて花を咲かせ始め、

ミツバチがぶんぶんと忙しく飛び交っている。

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常緑樹であるユーカリも近くによって見ると、

ちゃんとかわいらしい花をつけている。

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オーストラリア原生のワトル。

黄色い綿のような花からは、、ほのかな甘い香りが漂う。

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普段の散歩コースでお気に入りのユーカリの樹。

多様な野鳥がいろんな鳴き声で春の歌をさえずっている。

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「ほどほど」の母親生活がスタートしてから11週間・・・。

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春近し・・・・。

 

満たされたあなたのこころが世界を変える。

今年78歳になるアメリカの友人と電話で話していたときのこと。

 

最近、生活の中で喜びを感じる出来事がたくさんあり、とても満たされた気持ちでいると話してくれた後に付け加えるように、「世の中がこんなに混乱しているときに私ばかりこんなに幸せな気持ちに浸っていてもいいのかな〜って罪悪を感じることもあるのよ。」

 

あ〜この心に根強く潜む罪悪感!

 

罪悪感とまでは言わずとも、あまりいいことが起きるとそのつけとして次に悪いことが待ち構えているかもしれないから、手放しで喜べないという経験もよくあるのではないだろうか。

 

Guilty Pleasure という言葉がある。
罪悪感を感じつつも快楽を感じること。

 

例えば、太ると分かっていても、夜中に食べる濃厚な高級アイスクリームの格別なおいしさ。
いろいろとやらなければならないことがたまっているのに、ほったらかしにして長い昼寝をするときの心地よさ。
低俗でくだらないと批判しながらついつい見てしまう連続ドラマ、などなど。

 

人にはそれぞれ秘密のGuilty Pleasureがあるのではないだろうか。

 

罪悪感を感じることが正当かどうかは個人の価値観によるとしても、こころから喜びを感じたり、幸福を感じることは、体験している個人だけのためでなく、身近な周囲の人たち、ひいては、世界中にもいい波及効果をもたらすのである。

 

なぜなら、人はどんなに離れていても深い意識のつながりによって相互に影響を及ぼすものだから。

大きな木の小枝からは、反対側の枝からは見えていないかもしれないが、おおもとの幹や根っこでちゃんとつながっている。地球上の生き物や人類のつながりも同じく、目にはみえなくても、お互いの意識の状態は深く関連しているものだと思う。

 

そこで、今度何か楽しいこと、うれしいことを体験して罪悪感が湧いてきそうになったら、幸福感を半減させる代わりに、こんな違ったアプローチを試してみてはいかがだろうか。

 

ステップ1
ゆっくり深呼吸をしながら、今自分が体験している快感や喜びを体のどこで感じているか、どんな感覚が生じているか、じっくり振り返る。

 

ステップ2
吸う息とともに、その感覚を体全体に満たすようイメージする。

 

ステップ3
吐く息とともに、その幸福感(または、満足感、快感、うれしい気持ち)を世界全体と共有するようイメージしながらゆっくり吐き出す。

 

こうしている瞬間、地球のどこかであなたが感じているその体験を必要としている人が必ずいるはずである。まだ出会ってもいない、そして一生出会うことも無いかもしれない、その誰かとの深い意識のつながりを通して幸福を共有することは、世界を変える祈りとなる。

 

罪悪感にさいなまれるより、ずっと世の中のためになると思う。

後に残していくもの

これはいつものウォーキングコースで見かける光景。
こちらではこんなアートオブジェのような枯れ木によく出会う。

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乾燥した気候のせいか、木の性質なのかは定かではないが、すでに石化していて、枝や幹は空洞になっており、その空洞が鳥や虫の住処となっている。
木の生命が途絶えてからこの状態になるまで最低150年かかるそうだ。

 

命が絶えてからもなお150年後にこうして誰かの安全な住処として存在価値を持てるなんて・・・。

 

話は変わるが・・・
在宅ホスピスナース時代、受け持った患者さんから
「死ぬのは怖くないけれど、私のことを忘れないで欲しい」
という言葉をよく聴いたものだ。

 

では、どんな風に覚えていて欲しいですか?と問うとさまざまな答えが返ってくる。
しかし共通していたのは、死んだ後に覚えておいて欲しいのは、蓄えてきた金銭や物質・名声のことではなく、家族や友人など大切な人間関係とのつながりの証を後に残したいということだった。

 

私の大切な恩師であり友人であるプリモモ医師は、今年90歳を迎えるが、1980年台のアメリカでホスピスの草分け運動の先駆者として活躍した伝説的なホスピスドクターである。

 

彼女から教わったことは、挙げるにきりがないが、その中でも深くこころに刻まれたことは、

「あなたと出会う人たちは、あなたが何を言ったか、何をしたかというよりも、あなたといるとどんな気持ちになるか、ということをずっと覚えているものですよ。」

 

その言葉は私の人間関係を築く上での原点となっている。そしていつか彼女がこの世を去ってもこのつながりは、ずっと私のこころに生き続ける。


人はいつでも必ず誰かとつながって生きている。
そしてどんな形であれ、そのつながりがお互いの生に少なからずも影響をもたらしている。

 

私がこの世を後にするときには、周りの人たちのこころの中に、何を残すのだろうか・・

 

ウォーキングでこの木のそばを通る度に、そんな思いを新たにする。

満たされないと感じるときほど何かを手放してみる

私たちの頭をよぎる思考にじっくり意識を向けてみると、よほど訓練していない限りその大半は、否定的でネガティブなものが大半であることが分かる。

 

思考によって必ずといって良いほど感情が生じる。
そして感情によって必ず身体の反応が生じる。

 

これは人間の基本的な生理現象である。

 

ほとんどの場合、これは無意識の反応なので気付いていないことのほうが多い。
しかしやっかいなのは、その無意識の状態が長年続くことでネガティブな思考が身体の不調や病気をもたらす結果となることである。

 

たとえば、 一見何事もないように一日を終えても、じっくり自分の感情や身体の反応を振り返ってみると・・・

人の反応が気になって緊張していたり
約束の時間に遅れそうになった時、とても焦っていたり
身近な人の行動に対して不満や怒りを感じていたり・・
といった感情に対し、それに相応して体もいろんな反応を体験している。
(肩が思い、胃が重たい、呼吸が浅い、足が宙に浮いた感じ・などがその例である)

 

それらの反応に対して、周りを非難しているうちは、何も変わらないものである。
OOさんさえもっときちんと行動してくれたら

OOがもっと私の気持ちを分かってくれたら

OOさえ手に入ったら・・・・

などなど、挙げてみればきりがないが、これら条件付の願望は、さらに失望感や怒りを生み出す結果となりかねない。

 

ネガティブな思考や感情は必ずしも悪だとは限らない。

幼少期から長年に渡って、傷ついたり、さびしい思いをしたり、裏切られたと感じたりすることを繰り返した結果、自分の身を守るために身につけた防衛の手段でもある。

だから簡単に「怒りを手放そう!」とか「恨みを捨てよう!」と頭で(理屈)で思ってもなかなか手放せないものである。

 

それは何故なのか?

感情の背後にある真のニードを振り返ってみると思いがけない自分の姿見えてくる。

例えば・・・
怒りの背景には、本当に自分が守りたい無防備な自分が存在する。
逃げ出したくなる衝動の背後には、自分が立ち向かっても到底勝ち目はないという自分への不信感が存在する。
イライラの背景には、本当は自分も誰かに優しく世話をして欲しいという欲求が存在する。
嫉妬という感情の背後には、本当に自分が欲しいものが手に入らないという絶望感が存在する。

 

たまねぎの皮をむくように丁寧に自分の感情に向き合っていくと、なぜその感情が存在するのかが肯定できるようなり、自然とネガティブな感情で自分を守る必要性が薄れていく。

 

どんなに自分にとってみにくく、嫌だと思っていた部分でも、大切に手にとってみれば、けなげに守ろうとしてくれていた味方だったことがわかってくる。

 

生きていくうえでネガティブな感情は必要不可欠だと思う。

 

なぜなら、状況に対して自分がどのように反応しているか、正直に映し出してくれる鏡のような存在だから。

そして理屈ではなく、真から感情がほぐれてくると、生理的に身体も楽になってくる。

肩こりや頭痛、消化不良、腰の痛みなどは、感情に由来することがしばしばである。

 

身体とこころとは、私達が気付いていないうちにも環境に反応して自己防衛してくれるすばらしい仲間であり、大切に向き合いながら生活することで調和のとれた生き方がますます可能となってくる。

 

満たされないと感じるときほど、こころと体と向き合い、何かを手放してみるといいかもしれない。

思いがけないヒーラーとの出会い

ヒーラーというとちょっと変わった職業で、特別の能力を持っている人だという風に思われがちだが、英語でHealerというと「癒やす人」という意味でもある。

 

特別「ヒーラー」と言う肩書きを持っていなくても、立派に癒やしをなりわいとしている人は、社会にたくさん存在している。

例えば、看護師、セラピスト、心理士、カウンセラー、整体師、マッサージ師、教師、ボランティア、子どもをもつ親などと多様である。

さらに意味を広く捉えると、困っている人、傷ついた人、自分を必要としている人をやさしく包み込み、癒やしをもたらすと言う意味においては、ヒーラーはさらにいろんなところに存在している。

 

そして、思いもかけない人が思ってもいない場面で癒やしをもたらしくれることもある。

 

昨年日本へ向かう途中で乗り換えのため寄った、シンガポール空港でのこと。

真夜中であるにもかかわらず、シンガポールポーク空港のトランジットは、世界中からの旅行者が行きかっている。

 

元気が有り余っている時の空港は、おもしろい。

世界中から集まっている旅行者を観察したり、時々発着モニターを眺め、世界中から飛行機がいろんな人を乗せて行きかう様子を眺めたり・・。

 

でもたまたまその旅の途中の私は、不安と不満を抱えていた。
疲れが溜まっていて、とにかく横になって眠りたい、早く我が家にたどりつきたい。
空港の明るい照明や免税店などのショッピングストリートがわずらわしく感じられた。
そんなときはお腹がすいてもいないのに、なにか無性に食べたくなるものである。

 

フードコートに立ち寄って、何か温かいものを食べておこうと思った。
そこで応対してくれた売り子さんは、おそらく50台半ばの労働階級の女性。

 

普段目にする空港の職員は、もくもくと仕事に専念していて表向きは丁寧だが、どくに温かみは感じられない。空港という職場の環境がそうさせるのだろう。

ところが彼女は、何気なく安いシュウマイを注文してお金を払う些細な会話の中にでも、言葉としぐさに愛情がたっぷりあふれていた。


私がカウンターに近づくと、「何食べたい?」と疲れて帰ってきたわが子をいたわるように温かい声をかけてくれた。
一瞬彼女のお家に招かれているような錯覚すら覚えた。

 

シュウマイを注文すると、だまって笑顔でうなずき、発泡スチロールの容器に入れるしぐさにすべて愛情と笑顔が込められる。

 

なぜかうまく理由は説明できないが、彼女からシュウマイを受け取った時に思わず胸がジーンとした。
たったこれだけの些細なやりとりで、疲れきっている自分、不安や不満を抱えている自分、その私の存在すべてを許されたような気持ちがしたからだ。

 

フードコートのプラスティックのテーブルに腰掛けてシュウマイを食べている間、涙があとからあとからあふれてきた。

思いがけない場所で、思いがけない名もないヒーラーとの出会いだった。

今でもシンガポール空港に立ち寄るときは、シュウマイ屋さんで彼女の姿をつい探してしまう。

チョコレートを食べるより、宝くじにあたるよりあなたを幸せな気分にさせるのは・・

ゆううつな気分になったとき、簡単にあなたを幸福な気分にさせるのは・・? 

ヒントは、こちら・・・。

 

答えは、ロン・ガットマン氏による、7分間の講演ビデオをご覧ください。

下の画面をクリックすると、日本語字幕の画面が開きます。

私たちには、幸せになる要素が生理的に備わっていることが分かります。

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あなたは、今日何度微笑みましたか? 

 

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納豆の誇り

日本を離れてからかれこれ15年ほど経つが、どこに住んでも、どの国を訪れても、食べ物にはまったく問題なく順応してきた。

食事に関しては、まったく好き嫌いがなく、むしろさまざまなバラエティを楽しんで生活してきたが・・。
ここ数ヶ月いままで好物だったものが口に合わなくなり、非常に日本食が恋しい日々を過ごしている。

 

こんなオーストラリアの田舎町でも、国際化と近年の健康食ブームで日本食にも注目が集まり、味に贅沢さえ言わなければ、なんちゃって豆腐やなんちゃって味噌も近くのスーパーで手に入る。

 

しかし、どうしても手に入らないものが・・・・・・「納豆」!

 

納豆が夢にまで出てくるほど、どうしてもあきらめきれないので、ついに自家製納豆つくりに挑戦!
いざ実行してみると、拍子抜けするほど簡単にできてしまった。

 

丸一日かけてゆっくり繁殖していく納豆菌のにおいにしめしめと喜び、がんばれよ、と話しかけ、たっぷり愛情をかけた結果・・・・翌日にはちゃんとねばねばの納豆になっていた!感動の瞬間!!

 

日本食大好きな夫も納豆と梅干だけは食べないので、独り占めしようか・・と思ったが、最近出会った唯一の日本人の友人(そう、この町に定住している日本人は私を含めて2人だけ・)におすそ分けして、感動を共有してもらった。

 

炊き立てのご飯と納豆がもたらす至福の時をしみじみとかみ締めながら、どんなに外見はフィリピン人やタイ人と間違われても、私ってつくづく生粋の日本人だなあと誇りに思う今日この頃である。

支えられること・支えること

みなさんは、普段の生活の中で、どんな人(または物・事)に支えられていると感じるだろうか?

 

簡単に例を挙げてみると、私たちが重力に反して立ったり歩いたり、座ったりできるのは、体の骨格に支えられているからである。

特に脊柱というのはとても大切な部分で、十分にケアされていないと、姿勢が悪くなったり、関節にゆがみや痛みを生じたりする。ひいては骨格だけでなく体全体に支障をきたしてしまうこともある。

 

これといって特別意識していなくても、骨格は私たちのさまざまな活動を支えてくれる大切な存在だということがお分かりいただけると思う。

 

 

では、これを心・精神状態と置き換えてみるとどうだろう。

毎日のストレスや不安を感じたとき、こころが疲れや落ち込んだとき、あなたの支えになっているものは何だろう?

 

そしてどんなときに「支えられている」と実感するだろうか?
支えられていると感じるとき、どんな反応が起きているだろうか?

 

体にとって脊椎や関節が重要な役割を果たすように、あなたのこころの支えを意識して大切にすることは、こころの健康を保つのに不可欠であるのがお分かりいただけるだろう。

 

人のこころは物質や金銭では満たされないものだから・・。

 

感じたことを相手に伝えたり、気持ちをノートに書きとめたり、時には感謝の祈りを捧げてみるのはいいことかもしれない。

 

そしてあなたは、支えられことと同じく、支える存在でもある。

 

支えている相手=自分にとっての支えになっているとは必ずしも言えない場合もある。
好意や親切などは、キャッチボールのように即座に相手に返すことができるとは限らないから。
自分ができることをできるときに実行して人を支えている、と考えることが現実的だと思う。

 

あなたは誰に(何に)対しての支えになっているだろうか?
(パートナー、友人、家族、職場、もしくは誰も気づいていないかもしれない縁の下の力持ちであるかもしれない)
相手はあなたによって支えられていると実感しているだろうか?

何気ない言葉や行為が相手にとって大きな支えになっているかもしれない。
もしくは、あなたが支えていると思っている相手はそれを実感していないかもしれない。

いずれにしても、あなたが誰か(何か)の支えになっていると実感するとどんな感情や反応が湧いてくるだろうか?

 

こんな満月の夜は、そんなことを問いかけながら、身近な人と語らったり、静かな時間を過ごしてみるのもいいかもしれない。

 

 

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冬の予告編

ここ2-3週間、朝晩涼しくなってきてそろそろ秋だなあ・・・とのんきに思っていたら・・・。

 

急に最低気温が0度!
最高気温も10度止まりが、3日続いた。
しかも空はどんより、雨がしとしと。

これってもう冬到来!?
秋の深まりをしみじみと味わう間もなく、
冬ってこんなに寒かったんだよね、と改めて思い出す。

そろそ薪ストーブに火を入れようかな・・。


来週からはまた少し暖かくなる予報。
本格的な冬が訪れるまでの間、あとすこし秋が楽しめるかな・・・?

 

時間に追われる生活から、時間を自分の満足のために使う生き方へ

時間というのは、とても主観的なものだと思う。


時計というものさしを使うと一定して流れているように思えるが、楽しいときの時間はあっという間に過ぎるし、逆に退屈なときや苦痛を感じているときの時間はとても遅く流れるように感じるものである。

 

時間に関連した言葉をいくつか挙げてみると・・。

時間がない
時間に追われている
時間がもったいない
こんなことにかまけている時間はない
もっと時間が欲しい

 

このような言葉の背景には、私たちの無意識の価値観や感情が存在している。

何を大切にしたいのか
何を優先したいのか
どんな気持ちでいるのか

といったことが時間に対する感覚を左右し、時間の使い方や捉え方に影響している。

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最近よく、「時間に追われるような生活をしています・・」というお便りをいただいくことがある。
現代社会のひとりひとりが多くの責任ややるべきこと、やりたいことをたくさん抱えていながら、それでも一日は24時間、刻々と過ぎてゆく・・・。

 

穏やかで静かに、充実した日々を過ごしたいと願っていても、ついつい日々の出来事に忙殺されてしまうのは、なぜなのか・・・。

 

まずは、その背景にある心理を振り返ってみたい。

 

1.忙しそうにしていると、なんとなく重要な存在であるかのような錯覚
「忙しい=必要とされている、能力がある」、それと反対に、「ゆっくりのんびり=なまけもの・価値がない」という捉えられ方があるのではないだろうか。

 

私自身、幼少期に親や先生から直接的にも間接的にもそう教え込まれてきたと思う。
いろいろとてきぱきとこなせると優等生とみなされ、認められる。
そうでないと、なまけものと叱られる。

 

その基準を誰が作るのかは理解できないまま、何かをしていれば存在を認められると感じて育った覚えがある。

 

しかし大人になった今では、生き方の真の価値は、他人が私たちをどのように評価するかどうかではなく、実際に満足感や達成感、幸福感を感じているかどうかを軸にしてみるとよく分かる。

 

2.いろんなことに関わっていれば、世間とつながっていられるという錯覚 
テレビやインターネット、世間話、最新ニュースを取り入れることによって自分が世間やコミュニティーとつながっているという勘違いが生じることがある。情報をたくさん抱えていて、いろんな人と会話やメールのやり取りがあるからといって、本当に自分が人との輪とつながっているとは限らない。

 

逆に、そういったうわべだけの関わりでは、安心感や連帯感が得られることはなく、逆に携帯やインターネットや人との会話がないと不安になる場合は、依存症になりつつある兆候かもしれない。

 

本当に自分にとって大切な人とのつながりや質の高い時間を大切にしているだろうか?
このかかわりは、私にとってこころや魂の栄養になるような関わりなのだろうか?
・・・と問いかけてみるといい。

 

人や情報とのかかわりによって自分がどんな気持ちになるかじっくりみつめてみると、その価値が徐々に分かってくる。

 

3.忙しくしていることで根本的な何かと向き合うことを避けている場合
本当に自分が向き合うべきことや実行するべきことを避けるために、「忙しい」という巧妙な口実を作っていないだろうか?

 

何を避けているのか、何から逃げているのかは、当人にしか分からない。

 

本当にやりたいことをやってみて失敗することを恐れている場合もあるかもしれない。

こころから関わりたい人にこころを開いてみて、拒絶されるかもしれない可能性を恐れているかもしれない。

気を紛らわすものがないと、将来の不安や孤独感で押しつぶされそうになるかもしれない。

 

自分の内面の感情と向き合うことや大切な人と深いコミュニケーションをとることは、思うのは簡単だが、実行に移すにはとても勇気のいることである。避けたくなるのは無理もない。
失敗したり拒絶されたりしたときの絶望感を味わうくらいなら、避けて通った方が利口のようにも思える。

 

しかし避け続けることで、その代償の方が大きく、取り返しがつかなくなる場合もある。
避けたからといって自然に解決する訳でもないのだから・・。


4.穏やかで満ち足りた生活に値する価値がないという自己否定
自分だけが社会の抱える重荷から解放されて幸せに生活していいものだろうか・・という罪悪感や、一人だけ孤立したくないから、みんなと同じように苦痛を背負わなければ・・という思い込みは、周囲の環境や幼少期の体験から生じるものであり、思っているより無意識なもので根が深い。

 

そういった思い込みから抜け出せれば、逆にあなたの幸福でポジティブなエネルギーが周りに好影響をもたらすことが十分可能になってくる。

以上、思いつくままに書いてみたが、あなたにも思い当たる節があっただろうか・・・・・
(もちろん私自身十分思い当たっている・・・だからこのブログを書いている訳だから・・)

 

忙しさに終われる生活から解放されるためには、ただ漠然と「なんとかしなくちゃね〜」と空想しているだけでは、何も変わらない。

 

自分の行動の背後にある思い違いや、影の部分を理解し、人間らしい自分を認めることで、その呪縛から解放される道が自然と知恵として湧いてくるものだと思う。

 

忙しいことが悪いことだと言っている訳ではない。

どんな時間の使い方をするかはそれぞれ個人の価値判断で決めるべきことである。

 

忙しくても充実している生活を送っているのか、それとも忙殺される生活を送っているのかは、こころと体の状態がとても正直に鏡となってくれる。

 

大切なのは、自分の今のありのままの状態を正直に心と魂の鏡に映してみること。そのためには、自分と向き合う意思と覚悟が必要なのかもしれない。

 

最後に、アメリカのホスピス活動や、医療者の精神衛生の啓蒙で著名なレイチェル・ナオミ・レーメン医師が、著書の中で提案する一日の終わりの振り返りをひとつの糸口としてご紹介したい。

 

今日一日のうちで・・・・・・・・・・・・・
意外な発見・もしくは驚いたこと
感動したこと
感謝すること

 

これらを毎晩振り返るようにすると、一日の過ごし方が見えてくるだけでなく、優先順位が少しづつ変化してくるからぜひお試しあれ・・。

 

 

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5月遠隔瞑想会〜満ち足りた満月への祈り

春から初夏へと移行する熊本と、秋から初冬冬へと移行するオーストラリアと、気温はあまり違わないものの、お互いに季節の交換の時期ですね。

今月の瞑想会は、ちょうど満月の満ちる時間に焦点を合わせ、満月の穏やかで満ち足りたエネルギーをたっぷりと取り入れる時間と空間を創りたいと想い、企画しました。

 

こころを静かに祈りを捧げ、新たな活力と意欲を見出す空間を体験してみませんか?  

満月.jpg日時:5月17日(火)20時から20分間

(もしくはあなたにとって都合のいい時間) 

参加無料です。

参加者の方は、どこへ足を運ぶことなくその時いるその場所で参加することができます。 どうぞお気軽にご参加下さい!

その時間帯に都合がつかないけれど、満月の日の静かに時間を過ごせる時間帯で参加してみたいという方も大歓迎です。

 

瞑想についての基礎的なことを知りたい方は、こちらのリンクをご覧下さい。

参加ご希望の方は、こちらからお申し込み下さい。

参加者用の掲示板へのログイン方法と今回の瞑想法の説明を返信メールでお送りします。

 

みなさまのご参加をお待ちしています。

意外な瞑想の浸透度

先日友人宅を訪ねたときのこと。


18ヶ月になる友人の娘が、日本の番組で例えるとNHKのお母さんといっしょのようなテレビ番組に見入っている。


友人とおしゃべりしながら何気なくテレビの画面に目をやると、画面の中では3-5歳の子供たちが5-6人、アニメーションの空想の友人たちと会話している。
・ ・とここまではよくある子供番組の設定。

ところがその次の場面で、その子供たちがおもむろに芝生の上で座禅の形で足を組み、ひとさし指と親指をくっつけた手をひざの上におき、ゆっくり目を閉じる・・。
するととても穏やかな調べが流れ、アニメーションの空想の友人たちが空中をふわふわと漂い始めた。


背景が次第にお花畑に変わり、目を閉じた子供たちが満面の笑みを浮かべる・。

これはいわゆる瞑想の実際ではないか・・・・・?

いつのまに豪国営放送局の子供番組にまでこのようなイメージが流れるほど瞑想のコンセプトが浸透したのだろう・・・。

固定観念や先入観のない子供たちにとっては、「静かに座って目を閉じる=お花畑・幸福感」というイメージが自然とこころに浸透することだろう。


意外な驚きだった。


こうして育つ子供たちが増えるといいな・・。きっと穏やかで幸福な世の中になっていくだろう。

 

小さい秋 in Canberra

オーストラリア原生の木々は、ほとんど常緑樹だが、ふと目にする秋の色合いがさわやかな秋空にあいまってとても心地いい。

 

写真は、週末に訪れた豪首都キャンベラでのスナップ

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我が家から250キロほどの距離にある、人口345000人のこの都市は、メルボルンとシドニーの首都争いの議論の末、1908年に選ばれた土地。
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新しい街なので、とても整然としており、緑をうまく生かした利便性の高い町並みになっている。
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国会議事堂をはじめ政府主要建築物や美術館などが湖に面している。
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ちなみに枝にぶら下がっているのはこうもり。
音と臭いが写真では伝わらないが、鳴き声も臭いも強烈なこうもり達・・。
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俺とあいつの関係

ジャックという当時60台半ばの男性は、アメリカテキサス州サンアントニオ市で在宅ホスピスナースとして働いていた頃に出会った患者さんで、いまでもスピリチュアリティを考えるときしばしば想いに浮かぶ人のうちの一人。

 

オフィスから約50キロ離れたジャックの家に初めて訪問したときは、資源ごみ処理場に向かっているのかと思ったほど。

田舎の自動車道から舗装されていない道を、さらに2キロほど奥に入った原生地の木を数本切り倒して開いたような土地に7-8件のトレーラーホームが無造作に並べられていて、そのうちの一軒が一人暮らしのジャックの住まいだった。

 

いかにも荒くれ者といった風貌のジャックは、がんの診断も淡々と受け入れあまり多くを語らなかった。
さびれた住まいや風貌とは対照的に、実は建設会社を所有する大金持ちであると娘さんから聞かされたときは、とても意外だった。

 

小さい頃に貧困生活を強いられたジャックは、物心ついたときから近所の家の芝刈りや庭仕事を手伝い、数十円単位のお金を稼ぐようになった。
他の子供たちと違ったのは、そのお金をお菓子や遊びに使う代わりに他の子供に利子つきで貸し、少しづつ貯めて増やしたお金が、後に建設会社を立ち上げる時の資金になったということ。


「どんなに金を稼いでも、貧乏性は抜けやしない。」とジャックは幼少の頃を振り返って話してくれたことがある。

「俺の代わりに、3人の女房が俺の金を無駄使いしてくれやがったけどね。」
3回結婚と離婚を繰り返した理由は、どれも奥さんの金遣いの荒さが原因だったという。

 

その間にもうけた4人の子供たちとはほとんど折り合いが会わず、断絶状態。
「どうせあいつらは俺の金だけが目当てなんだろうけどね・。」とぼやくジャック。

それでも一人娘とはうまく関係を保っていたようで、その娘さんはこころからジャックのことを気にかけて世話をするために訪れていた。そしてジャックなりに娘さんのことを信頼していた。

 

毎晩眠りにつくときは、財布を枕の下において眠るというジャック。
次第に思考力が低下してきた頃、娘さんを呼んでこう言ったという。
「この家の中には、いざという時のために現金がいろんなところに隠してある。俺が死んでしまったら、いろんなやつらがやってきて家中をあさるだろうから、その前にその隠してある現金を全部お前が回収して持っていってくれ。」
彼の指示のもと、娘さんが集めた現金の総計は、20万円ほどになったという。
その一部は氷の中にビニール袋にくるんだお札を冷凍してあるものもあったという。

 

幸いにも身体的な症状は比較的コントロールできており、これといって精神的苦痛も呈さない状態が続いたものの、次第に体力が衰え最後の日が段々近づいてきているのは明らかだった。

 

そんな時期の娘さんの懸念は、ジャックが死んだら無事に天国に召されないかもしれないということだった。

敬虔なクリスチャンである娘さんからしてみると、これまで道理とか倫理とか信仰心からかけ離れた荒れた生活を送ってきたジャックを、神は許してそして天国に迎え入れてくれるのだろうかということが心配でたまらないと打ち明けてくれた。

 

チャプレンや牧師の訪問を提案してみても、彼はそんなものは必要ないと拒むばかり。
たまりかねた娘さんが、「私のためと思って・・・」といっても彼の気持ちは変わらない。

 

「娘は心配してるけどな・・、俺とあいつ(このとき必ず彼は人差し指を天井に向ける・・すなわち「あいつ」=「神」のこと)はちゃんとそれなりの関係があるからいいんだよ・・・。」とぶっきらぼうに私に何度も言ってくれた。

 

ジャックの意識が朦朧とし始めたある日、ベッドルームにつながるユニットバスが故障し、その修理のために水道屋さんがジャックの家を訪れた。

顔見知り程度の知人だったそうだが、これまた腕に刺青だらけの荒くれ風のいかついオジサン。それでもちゃんと修理を済ませた後、返事もままならないジャックに修理が終わったことを告げると、ジャックはかすれた声で彼を呼び止めた。

 

「あんた、神様を信じるかい?」やっと聞き取れる声でジャックが尋ねると、
「もちろん。毎晩神に祈ってるよ。」と水道修理のオジサン。
「じゃあ、俺のために祈ってくれないか?」

ジャックの手を握り無言で祈りを捧げる水道修理のオジサン・・。

まもなくジャックは静かな眠りにつき、そのまま目を覚ますことなく、数時間後とても穏やかな笑顔で息を引き取った。

 

ジャックの死の数日後、電話での会話で、「生まれてこのかた、知る機会のなかった父の本当の姿を最後の数日間のあいだに見せてもらった」と満ち足りた声で娘さんが語ってくれた。

 

宗教を超えた、真のスピリチュアリティの原点となる「信じる」という要素を想うとき、ジャックのことがしばしば思い出される。

スピリチュアリティにはいろんな形があって然るべきということを教えてくれたジャックにいまも感謝している。

自粛ムード

これだけ大規模の災害からまだ日が浅く、これからの復興への長い道のりが予想される毎日の生活の中で自粛ムードが漂うのは自然な成り行きかもしれないが、その背景にある私たちの感情や反応を振り返ってみるとどんなことがわかってくるだろうか・・。

 

自然災害やテロ、戦争または身近で起きる悲惨な状況において、直接被害を受けなかった人たちにSurvivors Guilt(生存者の罪悪感)という感情が生じると言われている。

 

大まかに説明すると、直接被害に遭った人の苦しみや痛みに同化して反応するだけではなく、直接苦しみや被害をこうむっていない自分に対して感情の矛先が向けられることである。

自粛ムードの背景にはこのような感情が働いているのではないか・・・。

 

それについて、自分の反応を振り返りそしていくつかの文献を総合して書き綴ってみたい。

 

日本の一部の地域で今だに想像を絶するような困難や苦痛を体験している人が
大勢いる。

それ以外の地域に住む人たちでも、一見何気なく日常生活を送っているように見えて感情が不安定になっていたり、人間関係がギクシャクしたり、このままでいいのかと自責の念に駆られたり、そわそわしたりすることがよくあるのではないだろうか。

 

日本に住んでいなくても、東北大震災が世界中の人たちの感情レベルに及ぼす影響が公にも個人的にも伝わってきている。

人の感情というのは距離に隔たりはないものだということを実感する。

 

「私より大変な状況に置かれている人たちがいるんだから・・・」と言い聞かせてみても、その不安定な感情への適切な対応がなく長期化すると、いろんな影響が出てくることもある。

 

生活の中で、ふと無力感を感じたり、落ち込んだり行動がおっくうになったりするときにまず覚えておきたいのは・・・・・・

 

*健康で幸せに生きているのは悪いことではない。
*被害や災害を受けずにすんだのはいいことである。
*生きることに喜びや幸せを感じてもいい
*自然災害が起きたのは誰のせいでもない。(ましてやあなたのせいでは全くない)

人の幸せや健康は、引き算でも足し算でもない。
自分が幸福を感じるとその代償に誰かがいやな思いをするというのは、無意識に刷り込まれた虚像の思い込みであり、幼少期の体験からくることもある。
そんな感情を振り返り検証することで、その呪縛から解放される機会が生まれるものである。

 

罪悪感という感情は、人の行動や思考をスローダウンする感情であり、できるだけ早いうちに肯定的な対処法が必要となる。

そして怒りという感情とも似ていて、罪悪感はさらに深い感情やさらに困難な課題に直面することを避ける無意識で巧妙な防衛反応だったりもする。

 

軽度の反応であれば、以下のようなポイントが参考になるかもしれない。

 

1.正直な気持ちを誰かに話すこと。

直接今回の災害に遭うことがなかったとしても、過去の喪失体験やトラウマが呼び起こされることもあるので、自分の反応や感情を正直に受け止めてくれる人に話をしてみること。それによって無力感や孤独感が緩和されることがある。ニュースで流れている出来事や噂話のレベルの話題でなく、今の自分の反応や気持ちを信頼できる人と話し合ってみる、もしくは文章として書き留めてみる。

その際、自分の話している(もしくは書いている)内容の良し悪しに判断をつけないことが大切。

 

2. 身近に安心感と安定感をもたらしてくれる環境や生活のリズムをとりもどすこと。

軽く体を動かしたり、楽しめる趣味などに打ち込んだりするで脳内のエンドルフィンの分泌が活性化され、気持ちが安定してくる。

 

3. 根拠のないネガティブな思考に執着しないようにする。

困難な状況にある人の苦痛を理解することと、自己否定は別のことである。

 

4. 自分の長所や強さ、これまで身に着けてきた知恵、達成してきたことを振り返ってみる。自分自身が過去に困難に遭遇したときに、どのようにしてそれを乗り越えたか。 その時何が支えになったか、何を学んできたかを振り返ることで、自分の長所や強さが認識できる。

 

5. 自分ができる現実的な支援方法を実行してみる。

 

6. 身近に支えとなってくれている人とのつながりを大切にする。

家族、友人、地域、仕事仲間、趣味仲間との関わりを通して自分を理解してもらえる実感や存在の意義を見出すことができる。

個人的な考え方だが、これからの日本の復興の長い道のりが向かう方向は、東北で被災した人たち以外の人々(日本人だけとは限らず世界中で見守っている人たち)のこれからのこころのあり方や行動の選択にかかっていると思う。

 

だからこそ、一人でも多くが健康で幸せで希望を信じて生きられるよう、こころと体のケアが大切になってくる。

 

遠隔瞑想会へのご案内〜「私の中のスピリチュアリティ」

4月の遠隔瞑想会〜「私の中のスピリチュアリティ」

 

スピリチュアリティとは、新しいことを学んだり知識を得るものではなく、すでに自分の中に存在する霊性(スピリチュアリティ)に気づくことです。


4月新月2.jpg瞑想と簡単なエクササイズを通してあなた自身特有のスピリチュアリティを探ってみませんか?

 

静かな空間の中で呼吸を整え、心と体の内面に意識を向けることで自然とあなたの中心にあるスピリチュアリティが開花してくることでしょう。

 

日時4月24日(日)午前9時から20分間
参加無料
どなたでもお気軽に参加できます。
 


参加者の方は、どこへ足を運ぶことなくその時いるその場所で参加することができます。

ここでいうスピリチュアリティはと、宗教や信仰による制限はまったくありません。

 

瞑想についての基礎的なことを知りたい方は、こちらのリンクをご覧下さい。
参加ご希望の方は、
こちらからお申し込み下さい。 

 

参加者用の掲示板へのログイン方法と今回の瞑想法の説明を返信メールでお送りします。

みなさまのご参加をお待ちしています。

Redemption Song

友人から送られてきた映像をどうぞ・・。

2005年に始まった、世界中のミュージシャンをつなぐ移動レコーディングプロジェクト。

 

この場に居ながら世界中の街角を訪れ、その空気を感じられる雰囲気がいいと思う。

まずは、ボブ・マーリーのRedemption Song のカバー。 

 

おまけは、おなじみのこの曲。

 

音楽というのは、言葉や文化を超えて心に響くからいいね・・・。

穏やかな日曜日

とてもお天気がよかったので、家から車で20分ほどのワイナリーへ・・

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レストランから見える景色・・・

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オリーブ農園から見えるワイン畑・・・

CottontailMarch20.jpg

 

帰りの車の中ふとラジオをつけると、

地元の番組で「上を向いて歩こう」が流れていた・・

こんなオーストラリアの田舎町でも今の日本を想ってくれている人がいる・・・。

曲にあわせて大声で歌った。

 

家に帰り着くと5年来の生徒さんからこんな素敵なメールが届いていた・・・

「岩手県で震災に遭った娘のことや、被災地で暮らす方達のことを思いながら、

昨日一枚の絵を描いてみました。

描きながら、次第に私の心が穏やかになっていくのを感じました。

自分の気持ちや感情を、

アートで表現してみるのも心が穏やかになるひとときです。」

(ご本人の許可を得て掲載)
Tさんアート.jpg

  

優しい色使いとメッセージでこころが温かくなり、

ちょうどいい時間でで祈りのこころをつなぐ遠隔瞑想会・・

風の音と鳥の声を聞きながらの静かな時間・・・。

 

とても穏やかでぜいたくな一日だった。

 

 

どの瞬間でも、どんなときでも祈りと愛情を必要としている人がいる

東北大震災が発生してから1週間以上経つが、その状況はいまでも毎日世界中で大きく報道されている。


もちろん、世界中が注目するほど大きな出来事であることはまちがいない。

 

そして被災して困難な生活を強いられている人々、大切な人や家を失って絶望の淵にある人、放射能の危険や恐怖にさらされている人たちのことを思うと、心が痛むばかりである。

 

それと同時に、その合間に短く報道されるクライストチャーチでの地震被害者追悼式の模様ややっと身元の判明した犠牲者について、行き詰まりを見せるリビアでの内戦の模様、自由を求めて立ち上がり無残に虐殺される人々、もちろんアフガニスタンではまだ戦争が続いており、世界中には生まれてこのかた「平和」や「充足感」を体験したことのない人たちが大勢いる。
アフリカ諸国での人種迫害や貧困、昨年同じく大震災による大きな打撃を受けたハイチでなかなか復興が進まず、困難な生活を強いられている人たちの様子・・・・。


日本で今起きていることを軽視するわけではまったくない。

 

私が言いたいのは・・・・・
どんなに私の身の回りが平和で満たされていても、世界中のどこかでは、いつでもどの瞬間においても私達の祈りと愛情と支えと理解を必要としている人たちがいる。

それは、遠く海を越えた外国でのことだったり、我が母国での出来事だったり、数日前にがんの宣告を受けて絶望に陥っている隣人だったり、自分と向き合いながら必死で真実を探し求めている大切な仲間だったり、障害を抱えてわずかな助けを必要としている街中での見知らぬ人だったりするのである。

 

そして私達が日常で感じる平和や充足感もそれがずっと続くという保障はまったくない。

私達の生は、たくましくもありそしてはかないものである。

それでも私達の生活は、おおかた平凡になにごともなかったように過ぎていく・・・・。
だからこそ、私達にできるささいなことは、毎日日常にあふれかえっている。

ここちよい秋風の吹く庭先で、美しい鳥のさえずりを聞きながら、洗濯物を干す手を少し休めて、この母なる地球からの愛情とこころから感じる充足感と感謝の気持ちをたっぷりと体中で感じ、そしてこの感覚を、今この瞬間に絶望と苦痛と困難に直面している人のこころに平等に届けたい、というのが私の「今」できるささやかな祈りである。

祈り    2011年3月12日

東北地方太平洋沖地震で・・・・・

 

行方不明者の安否を気遣っている方に、いい知らせが届きますように・・・


避難所で過ごす人たちに暖かい毛布と温かい食事が届きますように・・・


家や車を失くした人たちが必要な援助を受けられますように・・・


大切な人を失くした人たちのこころが慰めで暖かく包まれますように・・・


命を失った人たちの魂が、安らかな光に包まれますように・・・


揺れや災害を目の当たりにしてショックを受けた人たちが、こころの安定を取り戻しますように・・・

 

日本全土でこの地震と津波により不安を感じている人たちに安心と希望が戻ってきますように・・・。

新月の第一歩〜追記

3月5日 新月の第一歩のプロセスで

〜ここでいう00したいは、何かが欲しいという表面的な欲ではなく、こうありたいというたましいが切望することを指す〜

 

と書いたが、自分自身でもそれがどういう意味か問いかけてみるうちに、気づいたことがあるので、追記しておきたい。

 

これまでも何度か書いてきたが、私達の思考の多くは、「欲しい」という言葉が占めている。

早く家に帰りたい
おいしいものがたべたい
仕事で成功したい
宝くじにあたって一攫千金したい
彼氏(彼女)が欲しい
マイホームが欲しい
若返りたい
健康でいたい
新しい000が欲しい(洋服、車、電化製品、家具、・・・・)
休みが欲しい
旅行がしたい
新しい仕事が欲しい
もっとましな上司(部下・同僚)が欲しい
私を分かって欲しい
などなど、きりがないくらいである

 

このままでいると、欲しい・・が先行して夢見がちになり、自分の足元がみえなくなる。
欲しいものばかりを追いかけていると、それが手に入らない不満や葛藤のほうが自分を苦しめることになりかねない

 

では、もう一歩踏み込んで自分に問いかけてみよう。
「欲しい」ものを得ることでどんな状態・感情が得られるのか?

満足感
休息
安心感
愛されているという実感
認められているという実感
わくわくする気持ち
自分の存在を肯定する気持ち
楽しい気持ち
嬉しい気持ち
開放感
穏やかな気持ち

などなど・・・・・・

 

それに気づくと、「もの」や「こと」が欲しい対象ではなく、こころや魂の状態を切望していることがなんとなく見えてくる

実はものや状況にたよらなくてもその感情やこころの状態はすでに自分の中に存在するのである。

なぜなら、その状態をこころと身体が一度も体験して知ることがなければ、それが欲しいという欲求は起こらないからである。

言い換えると、一度も幸福感や満足感を感じたことがない人は、それが「欲しい」という気持ちすら起きない。

 

でも皮肉なことに、私達は条件付きの満足感や幸福感に慣れ親しんでいると思う。
000したらいいことがある
0000できたら認めてもらえる

 

これは、小さい時に
ごはんをちゃんと食べたらおやつをあげるからね
勉強ができたら000を買ってあげるからね
と言われて育ってきたことがそのまま大人になっても条件つきで楽しみや幸福感を得られると信じるようになるのと同じことだ。

逆にとらえると、欲しいものが手に入らないのは、私のがんばりが足りないから・・、思い込むようになる

 

ここで子育て論や何が正しいかを論じる意図はない。

 

私の経験からも言えるのは、こうありたい・・というたましいの切望する気持ちは、年齢や人種、社会的地位、生い立ちや性別とまったく関係ない普遍的な人間の姿であり、私達のありのままの姿のいい鏡になってくれるということ。

 

欲しい・・を追いかけるより、私の魂がいま何を必要としているかを自分自身で認めてあげられるようになると、何かを手に入れることに執着するより自分のこころをさらにみつめるようになれる。

すべての答えが、「今・ここ」に存在することに気づくようになる。

そのためには、「今・ここ」にある私がどんなことを思っているか、感じているか、願っているか、正直な姿を知ることから始まる。

新月のささやかな一歩

知らず知らずのうちに私達の思考の中には、000であらなければならないという自己理想像があり、それが実現できないと、自己否定や罪悪感が引き起こされることがよくある。


この理想像は、幼少期から長年かかって形作られるもので、無意識のものであることがほとんどである。

 

新月の夜は、そんな自分の無意識な束縛から解放されるための具体的な一歩を踏み出すのにはいい機会かもしれない。

 

OOOでなければならない(強制)からOOOしたい(願望)〜〜OOOできるへ

変容するための内観

 

まず最初に・・・

OOOOでなければならないと日ごろ思っていることを正直に5つ挙げてみる

例えば:
人に迷惑をかけない自立した人間であらなければならない
責任のある行動をとらなければならない
身なりをきちんとしておかなければならない
強い人間であらなければならない
家事(仕事)は完璧にやらなければならない

このリストを見返してみて感じることは?

 

次に・・・・
「誰にも(何にも)気兼ねしないで済むとしたらOOOOOしたい」と思っていることを5つ挙げてみる
(ここで指すのは物質的なものが欲しいという表面的な欲ではなく、こうありたいと願望を指します)

 

例えば:

幸せでありたい
人のためになる生き方をしたい
人生の目的を全うしたい
穏やかでありたい
人にやさしくありたい
自由に自分を表現したい
など

 

リストを読み返してみるとどんな気持ちになるだろうか・・。

 

次に・・・・
「私には実際にOOOOOできる」思うことをできるだけ具体的に5つ挙げてみる。

例えば:

笑顔であいさつができる
ありがとうとごめんなさいを素直に伝えることができる
自分に必要な休息を自分自身に与えることができる
一日5分間は静かな瞑想の時間を作ることができる
など

 

読み返してみるとどんな気持ちになるだろうか?

 

最後に・・・
明日から「OOOOできる」と挙げたことを実際に実行してみよう!

 

Take one step towards and discover that God has taken a thousand steps towards us.  Julia Cameron
神に向かって一歩進んでみると、

神は私達に向かって1000歩あゆみよってくれたことに気づくだろう。

 

 

あなたの一歩はどんなステップかな・・・・・・。

なんとなくやる気の出ない時は・・・・

アメリカの友人から送られてきた動画をどうぞ・・・

 

     

  

思わずこちらまで何か好きなことを楽しむ気が湧いてくる。

子供だけに限らず、大人になってもこんな気持ちになれることをどこかで切望しているのだろう。

 

こんなこころで人生と向き合えたら・・・・。

特に最後の1分間が好きだな・・。

満月に祈りを捧げる

3月遠隔瞑想会のご案内

 

今月は、ちょうど満月が日曜日と重なります。
満ち足りたエネルギーを取り入れて、静かな時間を共に過ごしませんか?

日時:3月20日午後3時から20分間
どなたでもお気軽に参加できます。


参加者の方は、どこへ足を運ぶことなくその時いるその場所で参加することができます。

今回は、ちょうど満月が午後3時10分ですので、中途半端な時間ではありますが午後3時からとしてみました。

何かをしている途中でも、しばし手を止めてこころを鎮め、満月のエネルギーを取り入れながら祈りを捧げましょう。

 

ここでいう祈りとは、宗教や信仰による制限はまったくありません。イメージ10.jpg

 

自分自身のために祈るのもいいでしょうし、身近で困っている人悩んでいる人、病んでいる人へ祈りを捧げるのもいいでしょう。

また、世界中で起きている不幸な出来事や悲惨な状況に置かれている人々へ祈りを捧げるものいいでしょう。

 

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みなさまのご参加をお待ちしています。

ちいさなリスク

Inertia [inə'ːrʃə] 和訳:惰性;不活発;無気力

 

頭では分かっていても、どうしても古い習慣や行動に捉われて前に進めないと感じている人は思いのほか多いのではないだろうか。

 

毎日が同じことの繰り返しであるというのは、ある意味安心感をもたらしてくれる。
それと同時に、目に見えない成長を遂げるべき私達のこころと魂は、長い期間同じサイズの生活を繰り返しているとそれが窮屈に感じられるのは自然なことなのである。

 

窮屈という実感がなくても、生活にやる気や喜びが感じられなくなったり、まんねり感を感じたり、日々が漫然と過ぎてしまうような時はやはりそうなのかもしれない。

 

そんな気持ちから抜け出したいと思っても、慣れ親しんだ習慣や人間関係、仕事、環境を変えるのは簡単なことではない。

 

そんなとき私達は理屈やいいわけを探そうとする。

ー今の生活のままで納得すべきだ
ー現状に感謝して満足すべきだ

ー取り立てて他にやりたいこともみつからないし・・
ー何かを変えるためにはリスクが伴うから無理だ・・・など。

 

昨年11月のトランスパーソナル中級講座を通してじっくり振り返ったテーマが、「リスク」と「個人のパワー」である。

 

なにかの行動を起こす時にはこころのエンジンをかけるエネルギーが必要である。
目指すゴールに行き着くためには思い切った一歩を踏み出す原動力が欠かせない。
そうでなければ惰性で毎日を過ごし、自然とそのエネルギーが尽きてくると惰性から停止状態になるのだと思う。

 

なぜこのようなジレンマが生じるのか、発達段階の特徴を簡単に説明したい。


私たちの発達段階初期において、特に乳児期には、自分のニードを満たすことを大人に完全に依存している。
そんなときは十分にニードを満たしてくれるという安心感が感情の発達に欠かせない。
そして大人が自発的な感情を映し出す鏡となってくれることで、自分自身の能力の認識やアイデンティティが次第に形作られる。

幼児期でよちよち歩きができるようになると、興味の対象に対して近づくことができ個性や好みがよりはっきりしてくる。
そして言葉を身につける頃には、そのこども独特の行動力やパワーが形成されていく。
これは後に大人になってから自分の人生を切り開いていくためには欠かせないステップなのである。

 

しかしながら、大人のルールに強制的に従わされたり、理不尽に個性を否定されるような環境で育った場合、その子供がもつ独自の個性やパワーを形成するチャンスが失われる。

 

自分の中にあるすばらしい個性や才能を表現することは、危険であるという思い込みから、かけがえのない宝にも等しい自分の才能や能力を誰にも気づかれないようにこころの奥深くにし舞い込むようになる。

 

そして大人になると、権力や集団に従うのが得意でありながら、自分が本当に何をしたいかわからないというジレンマに直面する。

 

大なり小なり誰しも体験することだろう、保育園・幼稚園・小学校などの時期に周りの決まりや意見に従ったほうが、楽に生きられるという体験。
自分の個性の表現を罰せられたり拒絶されたりするくらいなら、好奇心や自然な衝動をあきらめたほうがいい・・。
たとえそれが自分の個性を埋没させる結果になるとしても、である。

大人に依存している幼少期は無意識にそんな選択肢を選ぶのである。

 

そして大人になって、いままのままではいけないと漠然と感じるが、自分が本当にどんな生き方をしたいのかビジョンが描けない。

 

そんなジレンマを感じるときは、ちいさなリスクを負う行動をすることである。
それはいきなり無鉄砲で無責任な行動をとるということではない。

 

見えない鎖に縛られているこころとたましいを解放するためには、これはちょっと・・とためらっていたことを思い切って試してみることから始めてみるといい。

 

それは本当にささいなことから始まる。
ーいままで時間がないからとあきらめていた習い事をはじめてみる。
ー本屋に立ち寄って、以前から興味のあった趣味に関する情報を集めてみる。
ーいってみたかった、お店にひとりで足を運んでみる。
ー自分のために時間をつかってみる。
ーボランティア活動に参加してみる。
ーひとりでは行けないと思っていた小旅行に行ってみる。
ー言いたくてためらっていた自分の気持ちを大切な人に打ち明けてみる。

 

他人にとっては取るに足らないことでも、本人にとっては自分の行動力のパワーと達成感を感じる大切な一歩であり、
それは本人にしかかけることのできない心のエンジンなのである。

 

そんなプロセスを踏みながら、小さな試行錯誤を繰り返すことで、自分が本当に何を欲しがっているのか、それを得るためには何が必要なのかが明確になってくる。

自分が定めた方向に向かってちいさなリスクを負いながら一歩づつ足をすすめる自信と勇気がわいてくる。

 

あなたのちいさなリスクは何ですか?


Risks
(作者不詳)

 

笑うだけだと、バカだと思われかねない。
涙を流すと、感傷的だと思われかねない。
助けを差し出すと、巻き添えをくらいかねない。
感情をあらわにすることは、真の自分をさらけだすことになりかねない。
自分の考えや夢を人前で語ると、物笑いの種になりかねない。
愛しても、愛されないかもしれない。
生きることは、死と隣り合わせである。
希望を抱くことは、絶望することと紙一重である。
挑戦すれば失敗することもある。

 

しかしそういうリスクを負わなければならない、

なぜなら人生最大のリスクは、何のリスクも負わないことだから。

 

リスクを冒さない人とは、何もせず、何も得ず、

何者でもなく、何者にもなれない人である

 

 


 

あなたは なに人?

外国で生活していると、よく「あなたどこから来たの?」と尋ねられる。
アジア人だということは明らかでも、日本を離れると他のアジア圏のひとたちと見分けがつかいものなのだろう。

 

以前からよく中国人と間違われて、街中でいきなり中国語で話しかけられたり、チャイニーズレストランに入ると、親しげに中国語で迎えられたりしたこともある。

 

オーストラリアに移ってからは、「あなた何人?」と聞かれ、「日本人だよ。」と答えると、えっ?という反応が返ってくる。それで「アメリカに12年住んでいたから」と付け加えると、「ああだからアメリカ英語を話すのね。」と納得される。

 

話し方も、身のこなしも日本人っぽくないねと言われることが良くある。それでも名前を聞かれて、「Miyuki」と答えるとすぐにその響きで日本人と分かる人もいる。

 

昨日ひょこっと横道にそれて入ったちいさなカフェでは、50歳から60歳代くらいの中近東系の女性が3人オープンキッチンでせっせと調理をしていた。

レジの女性がとてもひとなつっこく話しかけてきてくれた。
白人以外の人口が比較的少ない町なので、白人以外の人と出会うのもちょっとめずらしいのかもしれない。

 

「あなたフィリピン人?」と聞かれるので、「(???・・・・・・)いいえ日本人ですよ」と答える。
この町では日本人はほとんどみかけないので、珍しかったようだ。

 

自分はエジプト人だと自己紹介してくれた彼女は、後ろの2人を指して、「この人はイラク人、もう一人はレバノン人なのよ。」と屈託なく教えてくれた。
「・・・・・。」私には到底その見分けはつかない。
これは、フィリピン人と日本人の区別がつかなかったことと同じように捉えてもいいものか・。

 

以前住んでいた町のちいさな魚屋さんでの出来事・・。
買い物をした魚を渡す際におじさんが自信をもって、

「あなたタイ人でしょ!」
「いいえ、日本人ですよ・・。」

「ああそうだったのごめんごめん!」とおじさんが謝る。

 

数週間後同じお店で同じおじさん・・・
「君はフィリピン人だったよね!」
「日本人ですよ。」
「ああ!そうだった、ごめんごめん!この前も聞いたんだったよね。今度はちゃんと覚えておくから!」

 

・ ・・・・さらに数週間後の同じおじさん・・・
「君はインドネシア人だったよね!」
(このおじさんはふざけてるのか・・。聞く度に地理的にますます日本から離れていくのはなぜ?)
「(ちょっとむっとしたので・・)これで3回目ですよ。日本人です!」
とても悪びれたおじさんは、別の魚をおまけしてくれた・・・・のでまあいいとしよう。

 

私は自分がそんな経験を何度もしているので、知らない人がなに人なのか知りたい時は、せめて「あなたはどちらからですか?」と聞くようにしている・・・。

大切な一歩は足もとから始まる

2月遠隔瞑想会へのご案内

日時:2月20日(日)午前9時から20分間

参加は無料です。

瞑想になじみのないかたでもお気軽に参加していただけます。

特徴
*どこへ足を運ぶことなく、そのときいる場所で瞑想が体験できます。
*あなたなりの瞑想体験を気軽に体験できます。
*遠くてもつながる意識を体験できるかもしれません。

毎回参加してくださっている方からのお便りの一部をご紹介します。

画期的な劇場的な体験ではありませんが、

穏やかに何かを気づかせてもらっています。

でも何もわからない時もあります。

それでいいのでは…とも思います。楽しみです。

瞑想というのはシンプルな形で自分の「今・ここ」と向き合えるツールです。 footprints.jpg

私は瞑想に出会ってからこれまでの10年以上、いろんな方法を試したり、勉強したり、調べてみたりしてきましたが、「これが絶対に正しい」という瞑想法は存在しないと考えるようになりました。

 

仕事をしていても、車を運転していても、料理をしていてもそのときの一瞬一瞬にまごころをこめて向き合うことができるようになると、こころも身体も次第に楽になっていきます。

 

いろんな本を読んだりして知識を得るより、どんな不完全な方法でもいいから、自分と向き合いたいという意思をもって短時間でも定期的に(できれば毎日)続けることでその人に特有な瞑想の効果を感じられるようになります。

 

瞑想についての基礎的なことを知りたい方は、こちらのリンクをご覧下さい。
参加ご希望の方は、
こちらからお申し込み下さい 

参加者用の掲示板へのログイン方法と簡単な瞑想の説明を返信メールでお送りします。

 

みなさまのご参加をお待ちしています。

思いがけない接点      2011年1月28日

先月のメルボルンでのワークショップでの出来事。

 

いろんな人種が入り混じるメルボルンでは、ワークショップの参加者もそれぞれ多様なバックグラウンドを持っている。

 

これまでもドイツ人、アルバニア人、イタリア人、ギリシャ人、スコットランド人、中国人など・・・・おっと忘れてはいけない・・・もちろんオーストラリア人といろんな人たちが参加してくれている。

 

円形に椅子を並べた会場でたまたま遅れて来て私の隣に坐った40歳代後半の女性。
(講師の隣の椅子は最後まで空席というのは、日本もこちらも似ている・・)

 

ディスカッションの間もほとんど発言しないが、熱心に参加してくださっているのは明らかだった。

最後のシェアリングの際、涙声で私の持っていた資料ケースを指差して、
「これは私の母国語です。たまたまあなたの隣に坐ったから、これが目に入りました。話を聞きながら、チェコスロバキアで心臓病を抱えて一人暮らしをしている妹を想い、ぜひこの内容を伝えたいと思いました。」

 

その資料ケースは、日本の文具店で表紙がかわいいからとほぼ衝動買いしたもの。
何か文字が書いてあるが、どこの言葉かは気に留めずに使っていた。

チェコ語で「幸せな人生を」という意味だと、後で教えてくれた。

 

ワークショップの後、その妹さんとのこじれた関係と抱えている悩みをさらに詳しくシェアしてくださった。その後もその方とはやりとりが続いている。

 

何がどこで人のこころを捉えるか分からないものだと、それまで何気なく使っていたものがとても特別なものになった。

結果への執着を手放すと

以前メルボルンに住んでいた影響で、全豪テニスオーブン開催時期だけテニスファンになる私。

夫・友人公認で「幻の恋人」と呼んでいる世界的に超人気選手の第2回戦で感じたこと。

 

初盤とても勢いよく2セットを勝ち取り、あまりにも一方的な試合に見えたので、安心していったんテレビを消した。


しばらくしてもう一度試合をチェックすると何と挑戦者がその後2セットを連取し第5セットにもつれ込んでいる。

 

初盤、これは一方的な勝ち試合だと口を揃えて言っていたコメンテーターも、これまでの記録を持ち出し、「これで彼が負けるとなると、2003年以来のグランドスラム2回戦敗退ですね。」と手のひらを返したように言っている。

 

これから2週間、彼の踊るように優雅なテニスを見られるのを楽しみにしていたのに、たまったもんじゃないと思ったファンが何万人もいたことだろう。

 

夜中の12時を過ぎてもどきどきわくわくまさに手に汗握る試合観戦。

なぜ私みたいななんちゃってテニスファンがこんなに彼の勝ちにこころをかけてしまうのだろうかと冷静に考えると不思議だが、やはり手を握り締めて観てしまう。(単純なだけか・・)

 

王者がみっともなく敗退するかもしれないというプレッシャーの中、ここぞというところで落ち着いたシャープなプレーを引き出せるこの精神力と集中力は一体何なのだろう・・・。

 

勝利の後のインタビューで、「あなたみたいに期待のかかった選手が2回戦で負けるかもしれないというプレッシャーをどのようにしてはねのけたんですか?」との質問に・・・・

 

「いやあ、楽しみましたから。時には相手が疲れてきてミスが多くなるんじゃないか、とか僕に勝ち風が吹いてこないかなとか期待しましたけどね。この試合は楽しかった。」と笑顔で冗談まじりに語るのを見て、圧倒・・。

 

ここまでの選手にのし上がるためには、相当の練習や毎日の試練を乗り越えないと到達できない。それは「勝ち」への執着がないと無理なことではないか。

そして一人で何万人という観衆の前でコートに立っていても、ただただその瞬間と目の前にあるボールに集中することで勝ちへの執着というプレッシャーから、テニスを楽しむという境地に行きつけるのだなあ。

 

なんちゃってテニスファンの私でも、学ぶことは多い。
いずれにしても、うっとり・どきどきするような彼のテニスをもうしばらく観ることができるのは、楽しみ・・楽しみ・・。

 

我が子が昼寝をしている間・・・

アメリカの友人から送ってきた写真がとてもかわいいのでぜひ一部を紹介したい。

 

この写真をとった女性はヘルシンキに住むコピーライターで、我が子が眠っている間遊び心で身近にあるものを使って夢の世界を作り始めたところ世界中で人気になったという。

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専門のカメラマンでない彼女は、娘のプライバシーを大切にしたいからと、写真を宣伝に使ったりはしていないという。

写真の一部を掲載するのは彼女のブログへのリンクが条件とされている。

興味のある方はこちらからどうぞ。

一夜で成し得る業

我が家の裏に大きなくもの巣ができていた。

 

通り道なので、ひっかかったら嫌だからと、くもを近くの木に移動させ、くもの巣はきれいに取り払った・・・・・のだが・・・・

 

1.5メートル平方の立派な大きさだったくもの巣、次の日の朝には取り払ったことがうそのようにきれいに元通りに張り巡らされていた。

しかも獲物の虫も数匹すでに引っかかっている。

一晩中せっせと編んだのであろう、繊細な網目の中心に堂々と主のくもが構えている。

 

マザーテレサの名言を思い出した。

この蜘蛛はちゃんと心得ている・・・。

 

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人は不合理だったり、非論理だったり、利己的なものです。とにかく許しなさい。

 

善を行うと、自分本位の下心からの好意だと非難されるかもしれません。

気にせず善を行いなさい。

 

成功したらうわべだけの友人や本当の敵を作ることもあるでしょう。
構わず成功しなさい。

 

誠実で気さくに振舞うと、だまそうとする人がいるかもしれません。                   それでも誠実で気さくでありなさい

 

何年もかけて築き上げたものを誰かが一晩のうちにこわしてしまうこともあるでしょう。

とにかく築いてゆきなさい

 

平穏と幸福をみいだすとそれをねたむ人もいるでしょう。
構わず幸せでありなさい。

 

善い行いをしても、 おそらく次の日には忘れられるでしょう。

気にすることなく、善い行いを続けなさい

 

あなたの持つ最良のものをこの世に与えても、十分でないような気持ちになるかもしれません。 それでもあなたのベストを尽くし続けなさい。

 

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
「人」がどうか、ということではないのです。

Mother Teresa

 

こころを取り戻す〜遠隔瞑想会のご案内

遠隔瞑想会へのご案内  
 
新年のこころを新たに、自分を振り返る遠隔瞑想会のご案内です。

 

 「心を亡くすという忙しさ。今の私は、心を亡くしかけているのかもしれません。

定期的に行われる遠隔瞑想は、そのことそのものがふっと我に返ることを思い出させてくれる貴重なイベントであり取り組みだと思っています。」 

(ある参加者の方の声)


今回で4回目となる遠隔瞑想会ですが、参加いただいた方は新しい発見や興味深い体験をしていらっしゃいます。

 

みなさまの参加をお待ちしています。 


日時:1月23日(日)日本時間午前9時から20分間
参加費は・・・もちろん無料です!
 
瞑想になじみのない方も大歓迎です。
どこにも出かけずに、構えることなくその時にいる場所でありのままのあなたの瞑想を体験していただけます。

 

瞑想についての基礎的なことを知りたい方は、こちらのリンクをご覧下さい。
参加ご希望の方は、こちらからお申し込み下さい。 

参加者用の掲示板へのログイン方法と簡単な瞑想の説明を返信メールでお送りします。

 

 

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新年のごあいさつ

今年一年みなさまが、

 

 

いつも正しい行動を選択されますように・・・。 

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あなたのカップが愛情であふれますように・・・

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いつでも嵐から身を守る場所が見つかりますように・・・

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その美しさを保たれますように・・・

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ときにははにかむこともありますように・・・

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仲間とのバランスがうまく保たれますように・・・

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 誰かが止めるまで、思いっきり楽しいことができますように・・・

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新しく出会う人がみんな面白くて優しい人でありますように・・・

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アクセサリーが自然の美しさを引き立ててくれますように・・・

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必要以上の空腹を感じなくてすみますように・・・

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友人がいつも喜びをもたらしてくれますように・・・

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ブログを始めてから1年が過ぎました。

今年も一年間お付き合いくださいますよう、どうぞよろしくお願いします。

 

みなさまの2011年が、

健康と、愛情と、幸せと、冒険と希望に満ちた年になりますようお祈りします。

Photos sent by C. Peterson, USA

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