クリエーティビティとスピリチュアリティ

スピリチュアルでない人間が存在しないのと同じく、クリエーティブでない人間は存在しないと考えている。

いわゆる「アーティスト」として、しかも成功している人だけにクリエーティビティが備わっているとする風潮は、クリエーティビティの狭くてゆがんだ捉え方からくるものではないだろうか。

私達は一人一人が今日、そして明日という作品を毎日創りだしている。


そして生きていること自体が独自のクリエーティビティを表現するチャンスにあふれている。

どんな生き方をしたいか、どんな服を着るか、どんな部屋で生活するか、どんな人と会うか、どんな行動をとるか、何を語るか、どんな姿勢で与えられた場面に向き合うか、どんな仕事をするか、生き方をどう捉えるか、私達は知らないまでも刻々と創造し続けているのである。

さらにクリエーティビティとスピリチュアリティは、深く結びついており、切っても切り離せない関係だと考える。(このことについては、また後日詳しく書くとして・・)

どんな生き方を創りたいか、発想を転換してみると今まで気づかなかったことや見えなかったものが見えてくるかもしれない。

友人から送られたビデオにとても感銘を受けたので、日本語訳つきでぜひご覧いただきたい。
世界中でベストセラーになった「Eat,Pray,Love」の著者であるエリザベス・ギルバートによる「創造性をはぐくむには」と題した20分弱の講演である。


Eat,Pray,Loveは「食べて祈って恋をして」というタイトルで和訳されていると聞いたが、私は、英語版で読んだので、日本語版を読んだ方はぜひ感想を聞かせていただきたい)

 

 

小旅行 その2

昨年の10月に行われた、オーストラリア統合医療学会国際カンファレンスのお手伝いをしたご縁で、理事会の先生方と親しくなり、その後も面白そうな学会に無料で参加させてくれたり、情報提供してくれたりしている。

 

そして9月からメルボルン市内の統合医療クリニックで毎月ワークショップを行うことになったのも、そんな出会いのご縁からである。

いっしょに仕事をした事務局の方が退職することになったので、その送別会に呼ばれて参加。

通常の理事会は、電話カンファレンスで行われるので、理事会のメンバー同士がこうして集まる機会は滅多にない。

お互いの近況報告やオーストラリアでの統合医療の現状を語り合いながら、どんどんワインのボトルが空になっていく・・。

 

そして締めくくりは、冬のセントキルダビーチに沈む夕日。

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満たされた気持ちで帰路についた。

 

 

小旅行 その1

今住んでいる内陸部の町はちょうどシドニーとメルボルンの中間で、どちらの都市とも500キロほど離れている。

車でも列車でも5時間ほどかかるが、用事もあることだしと出かけてみた。

午前3時発(!)の列車に寝ほけたまま乗り込み、目が覚めると牧草地帯には霜が降りている。

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近くに住んでいた頃は、いつでもいけると思っていたので

行ったことのなかった美術館。

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 なんだか今回のテーマはアートだったようだ。  

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(ちなみに、このストリートアーティストは、

チョークで直接アスファルトに絵を描いている)

 

 

 

 

 

本当は何を欲しがっているのか?

人間の頭には一日6-7万の思考がめぐると言われている。
その思考のうちの大半は欲求を満たすことに関連しているとも言われている。

 

基本的に人間は「欲しがる」動物である。


欲求が私達の行動を支配しているといっても過言ではないだろう。
それではなぜ「欲しがる」ということに対して、恥ずかしさや引け目を感じるのだろうか?

 

大人になるにつれ、何かを欲しがることは、わがままでありぜいたくであるということを刷り込まれていく。そして自分が本当に何を必要としているか、何が欲しいかすらも気づかないほど、「欲しがる」ということは奥深くにしまいこまれるようにある。

 

体のニードのみならず、人から認められたい、愛されたい、楽しみたい、といった精神的な欲求も生きていくうえでなくてはならないものであり、社会はそれで成り立っているようなものである。

楽しみや快楽を体験することはぜいたくであるという暗黙の了解があるが、私は幸せに快適に生きることは基本的人権だと捉えている。

 

みなさんは楽しいことや好きなことを体験して罪悪感や自己嫌悪を感じたことがあるだろうか?

罪悪感は、こころから「楽しい!」「うれしい!」「気持ちいい!」という体験を半減させる。
快楽が得られないから、もっとその感覚を追い求めるようになる。
これがいわゆる中毒や依存行動の元になる。


依存する対象は、多様である。
アルコールや薬物、ギャンブルだけでなく、仕事、ショッピング、インターネット、セックス、恋愛、人間関係、食べ物などが挙げられる。

 

依存の対象が何であれ、その背後にある精神的なゆがみは共通している。
こころの空虚感や不安感を埋めようとするが、本当に欲しいものが得られないのである。

つかのまの高揚感や満足感の後に、空虚感や罪悪感がおしよせる。頭の中では、自分を責める声が聞こえてくる。
本当の満足感が得られず、ますます自己嫌悪に陥るという悪循環・・・。


そのサイクルから解放されるためには、まず自分が何かを欲していることを認めることは大切な第一歩である。

 

例えば、こんなことを体験したことがあるだろうか?
何かを欲しいと直接伝えることができないから、間接的にまず相手の欲しがっているものを推測して与える。そして、言わずとも相手から自分の欲しいものが与えられると期待する・・・。
相手が思い通りに期待に応えてくれないと、腹が立つ・・。
どうして欲しいの?と聞かれても、「別に・・・。」とお茶を濁してしまう。

 

これは条件付の好意であり、見返りが帰ってこないときに不快感や悪意を覚えるときには自分の意図を検証した方がいい。

 

5月29-30日に行われたトランスパーソナルヒーリング中級講座では、そんな思考やこころの背後にあるプロセスとじっくり向き合う2日間だった。

 

そして講座の仲間として3年目になるこのグループがそれぞれの言葉や言動の奥にどんな感情や意図が潜んでいるのか、じっくり振り返る機会も与えられた。

 

他人の行動や言動をあれこれ推測したり詮索したりすることはよくあるが、意外と自分自身には意識が向かないものであり、自分自身の行動や言動の意図を理解しようとするとむずかしい。

 

私は自分のニードや感情を責任と勇気をもって表現し、コミュニケーションできるのが本当に大人になることだと考えている。(実行するのは簡単ではないけれど・・)

 

人は依存ぜずには生きられないという事実を踏まえながらも、「欲しい」とちゃんと表現し、自分のニードを満たすことができるという小さな自信を積み重ねていくことが、自虐的な依存から解放される近道でもある。

ある日の食卓で・・

何事もない普通の夕食のはずだったが、突如「こんなオーストラリアの内陸で鯛の尾頭付きが手に入ったことを祝うディナー」に変更になり、

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タイ料理風にしよう!ということで20分後

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その一時間後。

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あらら・・・変わり果てた姿

無常を感じるな〜。でも久しぶりの鯛おいしかった!

デキル・・・・・??!!

先週思い切って新しい机を購入!

アメリカを離れてから、自分のセッションルームを持つ機会がなく、誰かの場所を間借りしたり、家庭訪問をしたりしていたが、やっと自宅に仕事場件セッションルームを持つチャンスができた。

 

そこで、物書きをしたりこまごましたことをすませるための机を探していたが、事務用のものはなかなかぴんとこない。

そこで・・とても気に入ったダイニングテーブルを仕事机にすることにした。

ちょっとした傷物だったので、割引してあり、それをさらに値切り(!)、傷を自分で修理してみたら・・、立派なテーブルでとても気に入っている。

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まだガランとしている空間だが、これから心地いい空間をここに作っていこう。 

皮肉なことに、これまで住んでいた町から600キロも離れた田舎町に引っ越したので、これからまた新たなネットワーク作りとなるが・・。

 

机のよさで仕事の出来が決まるとするならば、

私って・・・かなり・・・デキルかもしれない!(笑)

自立と勇気

「自立した人間になるように」と小さい頃から言われて育ち、もって生まれた頑固さもあいまって、おかげで人一倍自立心の強い人間となったと思う。


人には迷惑をかけないように、人に頼らないように、甘えてはいけない、と知らず知らずのうちに、自分で自分を叱咤激励する癖も身についた。

 

それはそれで、社会で生きていくためにとても役に立ってきたと思う。


でも言いようのない寂しさや誰かに寄りかかりたくなる衝動を感じたときに、内面での折り合いがつかず、葛藤することもしばしばであった。

 

どちらも自分の正直な感情なのに、自立してバリバリ行動できる自分は肯定できるが、甘えたい自分のことはみじめったらしいと拒否してどうしても受け入れがたい。


そんな私でも正直なこころを表現しようと意識している今日この頃・・。

 

過日5月25日の熊本でのギャザリングを企画したとき、つながりのある人たちに声をかけ、「とりあえず会いたいから集まりましょう!」と誘いをかけたところ、平日の夕方というのにもかかわらず、あちらこちらから思いがけなくいろんな方が集って下さった。

中には車で2時間ほどかかる遠方から来た人もいる。

そして、集まった人同士での新しい出会いや偶然の再会の驚きも重なって、とてもいい雰囲気で時間が過ぎていった。

しがらみのないゆる〜い語らいの場が、なんと心地よかったことか!

 

最近つねづね、大切に思う人とのつながりを深めていくには努力が必要だと感じる。
それは、嫌々ながらのお付き合いや社交辞令を強いるということでなく、自分にとって何が大切かをはっきりさせ、それに応じた時間の使い方や付き合い方を選択をすること。

 

例えば、会いたい友人に声をかけて一緒に食事をしたり、電話で近況を話し合ったりなど、頭では分かっているのに、実行に移すのはなかなかそう簡単にはいかない。
時間だけがあっという間に過ぎていき、ほんの近くに住んでいるのにすっかりご無沙汰して逆に声をかけづらくなることだってある。

仲のいい友人だってときには意見がぶつかったり、相手の言動が気に障ったりすることもある。

 

そして大切にしたい人間関係においては、自分自身の感情や反応に責任を持って正直でオープンなコミュニケーションを心がけること。

こう書いてみると、大切な人たちとのつながりは、努力というより、自分の時間の使い方や優先順位の現われなのかもしれない。

 

そうでなければ、表面的な人間関係は、知らず知らずのうちに重荷と感じられるようになったり、自然消滅していったりする。

 

笑いも怒りも喜びも悲しみも涙も共有できる友人とのつながる空間は、こころが温まるだけでなく、生きていくために必要なことだと実感するようになった。

どんなに技術が進化し生活が便利になっても、人のつながりと支えによって生かされている。

 

ひと恋しいという感情を認めるようになると、大切な人に手を差し伸べる勇気も同時に芽生えてくる。

存在する実感

トランスパーソナルヒーリング性格学講座パート2は、雨の降りしきる阿蘇の麓で去る5月22-23日に行われた。

 

性格学講座をかいつまんで説明すると、胎児期から生後4-7歳までの発達段階を便宜上の5段階に分け、それぞれの時期においての環境や体験が形作る身体的特徴、コミュニケーションの傾向や人間関係のあり方を理解するものである。

そしてその理解を基にして新たな生き方の選択肢を探ることが大切な目的のひとつでもある。

 

その5つの段階のうち、今回の講座「スピリチュアルなスキッッゾイド」は、命が誕生して直後の胎児期から出生直後の時期に焦点をあてている。

 

胎児期というとその頃の体験を覚えていることはあまりないが、実は体験したことや生存のために学び得たことは、無意識のうちにしっかり脳や細胞の記憶として刻まれている。

 

命の始まりの時期にさかのぼるわけだが、講座をファシリテートする者として私は基本的に退行療法の技術は取り入れないことにしている。

無理に過去に引き戻すことによってトラウマを再び引き起こしてしまうことになりかねないと考えるからである。

 

その代わりに、体で感じる感覚や感情を意識したり、「今、ここ」の瞬間に安楽や安心感を体験できる機会を作ることで、これまで無意識に形成され繰り返されてきたパターンをリセットしたり、書き換えることができるようになる。

 

新しい選択肢がみえてくることによって、自分が生きたい生きかたに沿うように行動が軌道修正されていることがねらいであるが、あくまでも受講者本人の意思が尊重される。

 

だから同じ講座を受けていてもそれぞれに違った反応や発見があって実りが深い。

 

まず、この時期に形作られる防衛パターンの典型的な特徴を挙げていくと、「あ〜こんな人身近にいる!」とか、「うっ、これって私にすごく当てはまる・・。」という反応が見られる。

 

これまで無意識だった防衛パターンに気づき、それからの解放感を得る人もいれば、いままで気づかなかった体の感覚を体験し、いかに自分が疲れているかを再発見する人もいる。
また体の存在感や重みを実感して戸惑いを覚える人もいる。

 

自分の体験や気づきを通して、「良い・悪い」といった両極端の判断でなく、どのような場面で防衛パターンが刺激されるか、どのように対処することで行動や状況を変容することができるか、ということに意識が向き、変化が自然と身についてくるようになる。

 

なぜなら、私たちそれぞれに自然治癒力という能力が存在しており、その力を最大限に発揮できる環境を作ることができれば、どんな状況におかれていても内面を最善の状態へと導くことができるからである。

 

「自分の生き方を模索する」という共通のたましいの願いに導かれて集まった一人一人の想いが輪を作り、正直なこころのうちや思い出話、笑いや涙を共有することで、輪のつながりがますます深くなっていくのを実感する。

私にとって大切に思える人たちがこうしてさらに増えていく。

 

そして「今ここに存在する」こと、地に足をつけて生きることを実感する瞬間が、私の原動力ともなっている。


 

7月に入ると・・・

私の住んでいる界隈では、朝晩が日に日に冷え込むようになる。

日本から戻ってすぐ新しい引越し先に直行してから、あっという間に4週間が過ぎた。

 

一室にある薪ストーブに先週から火を入れはじめたが、いままでスイッチひとつで点火してくれる火に慣れてしまっていて、火を起こすのにひと手間かかる。

 

いまや何とか3度目のトライで、こんな感じになるほどに上達した・・(笑)。

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こうして炎を眺めていると、催眠術にでもかかったようにぼ〜っと見つめてしまう・・・。

そしてその辺に落ちている小枝や紙くずをみると、「あ、これも燃やせる!」と喜んで拾うようにもなる。

梅雨の時期をすごしていらっしゃる日本のみなさんへ、レモンの木の合間からのぞく冬の青空をお届けします。

 

 

 

 

 

Heaven Sent

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昨年、瞑想のCD Emerging Silence を共同製作した、

オーストラリアでの音楽死生学第一人者である、

Peter Roberts のこれまでの活動が全国放送の番組 Australian Story で30分間放送された。

 

彼は、40歳後半まで家業を継いで家具屋を営みながらかなりの収入を得ていたものの、こころの空虚感から目をそらすことができなくなり、一大決心でビジネスを引き払い、家族4人(奥さんと当時高校生の娘さんが2人)でアメリカのモンタナ州に引っ越して音楽死生学を学ぶことを決意した。

 

修了後、オーストラリアに帰国してから15年間が経つ今では、NPOを立ち上げ、地元での地道な活動から徐々に人々の信頼とサポートを得るようになり、今では病院のがん治療センターだけでなく、NICUで保育器の中の未熟児にハープを弾いたりする活動を行っている。

  

その活動が研究の対象となり、メイヨクリニックでの世界学会にて研究発表したこともある。

彼の活動の原点は、音楽は技術でなく「その人の想いが音色にこめられることでたましい同士がふれあう空間がつくられる」というものであり、彼の奏でる音色は独特の温かみに満ちている。

 

私は、家族ぐるみでのお付き合いをさせてもらっているが、奥さんや娘さんたちも番組の中でインタビューされている。 

 

彼のストーリーには死と向き合うことや、与えられた人生の目的を歩むことなど大切なメッセージがたっぷり描かれている。

 

豪ABC テレビHPで写真と番組をご覧になりたい方は、こちらからどうぞ。

(Watch Full Program をクリックするとビデオが開きます。)

聴く心、観る心、触れる心

熊本大学医学部保健学科のT先生とは、私が熊本大学医療技術短期大学部の看護学生だった頃にとてもお世話になり、卒業後もいろんな節目で大学の講義に呼んでいただいたり、私が先生のオフィスに尋ねていったりと大切なご縁が20年以上も続いている。

 

そのT先生が今年度で定年を迎えられるということで、最後の緩和ケアの講義の講師として招待して下さった。

 

「終末期におけるトータルペイン」と「グリーフケア」をテーマとし、5月20日・27日の2講義にわたりナースが陥りがちな3つの勘違いを柱に話を進めた。

 

勘ちがいその1

Pain is Bad. 「苦痛は悪である」

 

勘ちがいその2

Nurse is responsible for the outcome of patient’s death.

「患者の死に方は、看護師に責任がある」

 

勘ちがいその3

There is one right way. 「これが正しいという方法がどこかに存在している」

 

このなかで私がひそかに強調したかったのは、看護師としてのみならず、一人の人間としての感性を育んでいくことである。

 

自分自身の感情や体の反応を意識することができ、責任を持つことは、よいケアを提供するための必要条件であるとともに、心身ともに健康にナースの仕事を続けていく上でとても大切なことだと思うからである。

 

一見おとなしそうな印象を受けた学生さんたちのグループが、ディスカッションや体験エクササイズをちょっと抵抗しながらも受け入れ、一人一人が自分自身の感情やこれまでの喪失体験を振り返り丁寧に講義所感を書いてくれた。

 

なにより、所感を読んで感激したT先生が、私にぜひ読んで欲しいとわざわざ日曜日に私が講座をしていた場所まで届けに来て下さった。

 

それぞれの学生の想いやさらに湧いてきた素朴な疑問が綴られたレポート一枚一枚に目を通しながら、その素直な感性に私自身のこころが改まる思いだった。

久々のブログ更新

書きたいことがあまりあり過ぎると、逆に書き出せないことが分かった。

5月ー6月にかけての3週間の熊本滞在で感じたこと、体験したことを少しづつまとめていこう・・。

とブログで言ってしまえば、少しプレッシャーになっていいだろう・・。

5月のGlobal ECHO ギャザリング in 熊本 のご案内

ここ最近のオーストラリアでの生活と先月のアメリカへの旅での体験から、
ますます人と人とをつなぐことの大切さを実感しました。
 
人ととつながることは私達の生きるための本能として大切なことなのです。
本当の幸せや満足は物質でなく人との深いつながりによって得られると確信するようになりました。
 
そこで、以下のようにこころをつなぐギャザリングを予定しました。
 
簡単にいうと、ぜひみなさんと顔を合わせる機会を作りたい、という動機です。

私が最近学んだこと、大切に思っていることなどをみなさんとシェアしたいと思っています。

他の講座の生徒さんや新しい方との出会いの機会ともなることでしょう。
お友達やご家族をお誘いの上ご参加をお待ちしております。
 
日時 5月25日(火) 18:30-20:30
場所 みゆきの里和楽3階研修室
参加費 500円
 
参加ご希望の方は前日までにメールにてお知らせ下さい。

こちら をクリックして送信下さい。

コミュニケーション   2010年5月13日

つい最近まで愛情や信頼があればすべての問題は解決するはずだと勘違いしていた。(こうやって公に認めるのはちょっと恥ずかしい・・。 )

 

でも自分の気持ちを責任と勇気をもって相手に伝えることなしには、本当の信頼関係は築けなということを繰り返し改めて実感しつつある。

 

最近、仕事仲間で親しくなった友人と些細な勘違いが原因でわだかまりが生じた。

 

理屈では、自分の立場と相手の立場がちゃんと理解できている。


にもかかわらず、最初の怒りから、誤解されたという悲しさに代わり、友情が崩れてしまったような気がした。

 

しばらく考えて自分気持ちを振り返った後、電話して二人で話し込むこと40分。


だんだん怒りや悲しみが収まってきた。


なぜならお互いに言いたいことが言えて、なぜ勘違いが生じたかが自分の言葉で理解できたから、そしてお互いの気持ちを素直に表現できたから。

 

決して耳に優しい言葉ではなかったが、お互いに足りなかった部分を責任もって認め相手に謝ることで、人間関係の亀裂にはならなかった。

 

それどころか、お互いに何でもいえるという信頼感がさらに深くなった。

 

人間は完璧に行動できるわけではない。(分かっているけど、つい忘れるよね・・)
お互いを尊敬・信頼していても、勘違いや気に入らない出来事は必ず起きる。

 

数年前までの私は、友情を失いたくないため、相手にいい顔ばかりみせようとしていた。
でもその結果、飾りの自分をもってしか関係が築けない。


いい顔するのに疲れたら、関係に距離を置くか(もちろん相手には知らせず)うまい言い訳を作って自然消滅させようとしていただろう。

 

でもこうして自分をさらけ出すことで、お互いの違った意見を認め、友情を確認することができたことは、大きな収穫だった。

 

そんな友人の存在と寛大さに感謝したい。

メルボルンの街角    2010年5月7日

用事にかこつけて、メルボルンのダウンタウンに出向くと、いつも新しい発見がある。

電車の中で出会うちょっと妙な人や、旅行者、ビジネスウーマン、ビジネスマン、買い物客にまぎれて街をさまようと何故かインスピレーションが湧いてくる。

 

 そしてこれといった理由もなく必ず足が向かうのが、裏通りのカフェやお店。

 

ときどきは人ごみにまぎれてみるのも面白い。

 

 

 

 

ナースは白衣の天使か??

先日オーストラリアのArt of Healing という雑誌に「Are the Nurses Angels?」

(ナースは白衣の天使か?)というタイトルでナースの心の内面についての記事を寄稿した。

 

ArtofHealingArticle.pdf 英語版

 

ナースというと献身的に患者や家族のために働く「白衣の天使」というイメージと、それに相反した「3K」という現実の間にはさまれた職業である。

ちなみに、3Kとは、きつい、汚い、危険 の頭文字をとったもの。

(さらに給料安い、化粧がのらない、休暇がとれないとKの追加はきりがない・・。)

 

そして医療従事者における、身体的・精神的な健康問題は深刻化してきている。

 

命を預かるという責任を負い、そして生死や人間模様の悲喜こもごもを目の当たりにしながら毎日仕事をこなすナースのための心とからだのケアが最近では見直され始めている。

 

心を込めて患者と関わるほど、患者を亡くしたときの悲しみや、思った結果が出なかった時の無力感や罪悪感は大きくなる。

 

そんなときのこころのサポートやセルフケアの重要性を教育のレベルから取り入れていく必要性を強く感じるのである。

 

看護協会やさまざまな医療機関の看護部で講演の招待をいただく時に、かならずナースのための癒やしやセルフケアの内容を取り入れるようにしている。

 

ナースは天使でなく、生身の人間だからこそ苦しみや悲しみや疲労を感じるのは自然なことであり、心と体から発する信号をうまく取り入れて癒やしていく方法を身につけるためである。

 

そして完璧な白衣の天使であることよりも、苦しむことや悩むことを深く体験して乗り越えてきた智慧をもってこそ、人間として患者や家族と向き合うことができるようになる。 

 

ナースのためのケアを重要とするのは、人を癒やす立場にあるものにとって自分を癒やす方法を模索することは、決して身勝手なことではなく、必要なことであると痛感しているからである。

 

参加者の中には最初戸惑う方や、抵抗感を覚える方も見られるが、人の手のぬくもりや心の内面の静けさはこころが切望していることだと身を持って感じていただけると、会場全体が温かい雰囲気に包まれる。

 

自分に正直に楽に生きられるようになると、真のやさしさがにじみ出るようになり、そんな人からの笑顔や温かい言葉、触れられる手のぬくもりはささやかでありながら、正真正銘のケアなのである。